嫌な記憶の忘れ方 (2)

嫌な記憶 (2) 嫌な記憶の忘れ方

なぜ嫌な記憶は強く刻まれるのか

海馬

 記銘(覚える・保存する)の段階では、特に海馬(かいば)という部位が関係します。

 海馬は脳の奥深く、左右の側頭葉の内側に位置しており、主に記憶を作るための中枢として機能しています。

 海馬は、記憶の司令塔のような存在です。

 新しい情報を一時的に保管するとともに、それを長期記憶へ変換する際に重要な役割を果たします。

 出来事の順序や文脈を整理するほか、空間認知や場所の記憶なども担っています。

 今日あった出来事を覚えているのは、海馬が一時的に保管しているからです。

 そして、その記憶が重要だと判断されれば、長期記憶として保存する作業を行います。

 海馬は、睡眠中に記憶整理を行うとされています。私たちが眠っている間、海馬は日中に得た情報を整理して、必要な記憶を長期保存しているのです。

 海馬は、記憶における主役ではありますが、本書のテーマである「嫌な記憶」との関わりでは、次の扁桃体(へんとうたい)の方が重要です。

扁桃体

 扁桃体は感情を処理する中枢であり、特に恐怖や不安などのネガティブ感情に関与します。

 海馬のすぐ隣に存在し、記憶を司る海馬と密接に連携しています。

 扁桃体の主な役割は、次の通りです。

・危険を察知する。
・快か不快かを瞬時に判断する。
・記憶に感情を付与する。

 扁桃体の最優先任務は、生き延びること。快適な人生のためではなく、生命を守るために存在しています。

 扁桃体は、理性的な判断を行う前頭葉より、遥かに速く反応します。

 例えば、道端で蛇のようなものを見た時、「これは危険だ!」と瞬時に防御反応を促します。
 よく見たらロープだった、と気づくのはその後です。この最初の反応が、扁桃体によるものです。

 危険から身を守ることを最優先するため、ネガティブな事象に対しては、特に敏感に反応します。
 楽しいことより、危険なことを優先的に覚える方が、生存に有利だからです。

 この仕組みをネガティブバイアスと呼びます。
 人間の脳はポジティブな事象より、ネガティブな事象を強く記憶するように、最初から設計されているのです。

 扁桃体は「感情の警報装置」と言えるでしょう。

 重要なのは、「記憶に感情を付与する」という機能です。

 扁桃体は、出来事に対して「これは重要だ」「これは危険だ」という判断を下して、その情報を海馬に伝えます。

 そうすると、海馬はその出来事を優先して、記憶として保存します。

 危険判定を行う扁桃体と、記憶形成を行う海馬は隣り合っており、物理的に近い距離に存在します。

 この二つが連携して、ネガティブ感情を脳に強く刻んでしまうのです。

 整理すると、次のような流れになります。

・嫌な出来事が起こる。
・扁桃体が「これは危険だ!」と判断する。
・扁桃体が、海馬に「これは重要な情報だ」と伝える。
・海馬が優先的に、強く記銘する(覚える・保存する)。

 これは欠陥ではなく、人類が長い進化の中で獲得した安全弁です。

 不安を感じやすいことや、嫌な記憶が消えにくいことは悩ましいですが、一方で脳が正常に働いている証拠とも言えます。

 扁桃体は、命を脅かす危険が多かった時代は、重要な役割を果たしたのでしょうが、現代社会では過剰に働いてしまっています。

 あなたの性格や能力、意志の強さなどに問題があるわけではないことを、覚えておいてください。

POINT
海馬は、記憶を作る時の司令塔。
扁桃体は、危険判定を行う「感情の警報装置」。
海馬と扁桃体は隣り合っており、密接に連結している。
嫌な記憶が強く刻まれるのは、扁桃体がネガティブな出来事を重要と判断して、海馬がそれを優先的に記銘する(覚える・保存する)ため。

なぜ勝手に出てくるのか

 思い出したくない記憶が、勝手に頭に浮かんでくるのは、なぜなのでしょうか。

 この現象には、明確な理由があり、想起(思い出す)に関する脳の特性が深く関わっています。

 改めてですが、想起とは、保持されている情報を取り出して、再生するプロセスです。

 記銘(覚える・保存する)の時に利用したタグ(目印)が、そのまま想起(思い出す)の時のトリガー(引き金)になります。

 脳は「情報+α」で記憶しますが、この+αの部分が「タグ=トリガー」になります。

記憶は「神経回路の結合パターン」である

 記憶というものは、意図して取り出せないこともあれば、思い出したくないのに勝手に飛び出てくることもあります。

 例えば、昨日の夕食に何を食べたか、すぐに思い出せないことがあります。これは記憶が消えたのではなく、検索に失敗している状態です。

 一方、嫌な記憶は、思い出そうとしていないのに、勝手に頭に浮かんできます。これは記憶の検索が、自動的に成功してしまっている状態です。

 日常でいう「忘れている」の多くは、タグ=トリガーが弱くて、検索に失敗しているだけです。記憶が消滅したわけではありません。

 逆に、嫌な記憶が勝手に出てくるのは、本人の意図に反して、検索が成功し過ぎてしまっていることになります。

 なぜ、このようなことが起きるのでしょうか? その理由は、脳の神経回路の仕組みにあります。

 脳はパソコンなどと異なり、情報をファイルとして保存しているのではありません。

 記憶の物理的な実体は、「神経回路の結合パターン」です。

 この神経回路のことを「シナプス」と呼びます。より正確に言えば、神経細胞(ニューロン)同士が情報を伝え合うためのツナギ目(接合部)を指します。

 ある神経細胞と別の神経細胞が、お互いのシナプスを通じて情報を送受信して、結合を強めることで情報を保存しています。

 その情報伝達に関与したシナプスの結合パターンこそ、私たちが「記憶」と考えているものです。

 概念的で分かり辛いですが、イメージとしては、「誰かと誰かが一緒に行動して、少し仲良くなった」という感じで捉えておいてください。それによって、「人間関係」という結合パターンが生まれたわけです。

 よく使われる神経回路ほど、シナプス間の結合が強くなり、情報伝達が起こりやすくなります。

 反対に、使われない神経回路ほど、シナプス間の結合が弱くなり、情報伝達が起こりにくくなります。

 重要なのは、「頻繁に使用した神経回路は、結合パターンが強化される」ということです。

 なかなか思い出せない、または忘れてしまうのは、神経回路の結合パターンが弱くなっているからです。

 それに対して、思い出しやすい、または勝手に出て来てしまうのは、神経回路の結合パターンが強くなっているからです。

 そうであれば、嫌な記憶が、本人の意図に反して、勝手に出て来てしまう理由が分かるでしょう。

 その記憶に関わる神経回路が、非常に太く、強くなってしまっているのです。

ヘッブの法則

 神経科学には、「ヘッブの法則」という基本原理があります。

 これは、一緒に発火する神経細胞は、結びつきが強くなる(Cells that fire together wire together)という法則です。

 逆に、長く発火が起こらないと、そのシナプスの伝達効率が減退して、やがて忘れてしまいます。1949年にカナダの心理学者ドナルド・ヘッブが提唱しました。

 記憶を再生する時、脳内では次のことが起こります。

・関連する神経細胞が同時発火する。
・シナプスの結合パターンが強化される。
・次回は、より少ない刺激で発火可能になり、思い出す時のハードルが下がる。
・同時発火が多いほど、検索がより速くなる。

 嫌な記憶は、思い出したくないのに、トリガーに触れるたびに呼び出されてしまいます。

 そして、思い出すたびに神経回路が強化されて、さらに思い出しやすくなるという悪循環に陥ります。

 記憶を思い出すたび、脳は「このトリガーを使って、この経路で思い出せた」という体験を学習します。

 上手く検索できたという「成功体験」が多いほど、その検索ルートが舗装・強化されて、より効率的に、より少ない抵抗で、より自動的になっていきます。

 脳にある検索ルートは、一つだけではありません。常に多くのルート候補が競合しており、それに競り勝った検索ルートが使用されています。

 勝った検索ルートは、好まれて使われるようになり、より強固になります。

 一方、負けた検索ルートは、使われる機会がさらに減り、より弱体化していきます。

 結果として、勝った検索ルートはいっそう勝ちやすく、負けた検索ルートはいっそう負けやすくなります。検索ルートの最適化が進むわけです。

 嫌な記憶が勝手に出てくるのは、ある特定の検索ルートを、まるで幹線道路や高速道路のように育成してしまった結果と言えるでしょう。

POINT
記憶は「神経回路の結合パターン」である。
よく使う神経回路ほど、結合パターンがより強化される。
嫌な記憶が勝手に出てくるのは、頻繁に使われた神経回路が太く、強くなってしまっているから。

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