大友宗麟は売国奴だった? 奴隷貿易 キリシタン大名

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恐るべき奴隷貿易

 奴隷貿易という物騒な言葉があります。

 18世紀に行われた三角貿易、つまり欧州の銃火器をアフリカで売り、アフリカの奴隷を新大陸で売り、新大陸の砂糖を欧州で売る貿易が有名です。

 奴隷貿易は16~18世紀にかけて行われ、約3世紀の間に、900~1,100万人のアフリカ人が新大陸に運ばれたと言います。

 新大陸のインディオ人口が、欧州人が持ち込んだ疫病や、強制労働などで激減したため、それを補うための重要な労働力になりました。

 奴隷貿易と言えば、アフリカを連想しがちですが、奴隷文化は古代ギリシャの時代から存在します。
 彼らは「物言う道具」として、人格を認められず酷使されました。

 特にスパルタでは、奴隷の数が市民を上回っており、反乱を防ぐ意図もあって、過酷な兵役を課されたと言います。

 slave(奴隷)という単語は、中世に多く奴隷化された「スラヴ人」に由来しますから、欧州ではごく身近な概念だったのでしょう。

 私は学生の頃、アフリカの奴隷貿易について、欧州人が銃火器を振り回して、奴隷狩りをしたのかと誤解していました。

 しかし実際は、アフリカの部族同士が抗争しており、欧州人は武器を渡してこれを煽ることで、戦利品である「負けた部族の捕虜」を取得していたのです。

 これは考えてみれば当然で、自ら奴隷狩りをしようと思ったら、軍隊規模の人員が必要になります。奴隷商人の私兵では無理な話でしょう。

 奴隷として売られたのは、元々は戦争捕虜・属国の貢物・債務奴隷・犯罪者などでしたが、富になると認知された後は、たとえばコンゴなどは積極的に、奴隷狩りを目的にした遠征を行ったとされます。

 奴隷貿易で(広い意味での)同胞を売り、それによって潤った国があるというのは、なんとも悲しい話です。

先進的で有能?

 奴隷貿易は残酷な話ですが、日本人にはどこか他人事のような響きがあります。

 私自身もそうでしたが、しかしある時に「大友宗麟も本質的には似たようなものではないか」と思ったのです。
 聞いたこともない意見なので、勝手に閃いて、勝手に不安を感じました。

 私の歴史好きは「信長の野望」に始まったので、大友宗麟には良いイメージがありました。

 キリスト教文化と新兵器をいち早く導入した「九州の雄」という印象が強く、高橋紹運・立花道雪・立花宗茂など、スター性のある優秀な武将を擁していたからです。

 とりわけ、フランキ砲「国崩し」は、大友家の象徴と言ってよいでしょう。

 数ある戦国大名の中でも、明らかに異彩を放っており、学生時代の私は、大友宗麟を「先進的で有能なキリシタン大名」と認識していました。実際、そういう面はあったと思います。

硝石の衝撃

 大きく印象が変わったのは、彼の領内で奴隷貿易が行われていたと知った時です。

 なんと「硝石1樽を仕入れるために、若い女性50人を売った」というのです。

 これ自体はやや誇張された逸話かもしれませんが、似たような取引はおそらく珍しくなかったのでしょう。

 硝石(硝酸カリウム)は黒色火薬の主成分であり、その原料の約75%を占めます。

 火薬は「硫黄・木炭・硝石」から作りますが、当時の日本には国産の硝石がなく、輸入に頼らざるを得ませんでした。

 火薬がなければ、鉄砲があっても使えません。無論、自慢の大砲「国崩し」も使えません。

 しかし、内乱で勝ち残るために、自国民を売って、強力な武器を手に入れるというのは、前述したアフリカ大陸における部族抗争と同じ図式ではないでしょうか。

 その時代の硝石は、動植物の排泄物(蚕の糞や人の尿)、枯れ草などを混ぜ合わせ、屋根裏や床下で発酵させて生産しました。

 ある程度、乾燥した環境が必要であり、温暖湿潤の日本は生産に向かなかったことが、国産化に時間を要した理由とされます。

 九州は降水量が多いので、特に適さなかったことでしょう。

 日本人の対価だった硝石が、実は動植物の排泄物だったという事実に、当時の私は衝撃を受けました。

 学生の時分は、新兵器で戦を有利に進めることを、無邪気に褒め称えていましたが、わざわざ外国の兵器を輸入して、「自国民が効率的に殺し合う」というのは、悲劇そのものではないでしょうか。

キリスト教国家の現実

 1582年、九州のキリシタン大名らは、司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で、天正遣欧少年使節をヨーロッパに派遣します。

 宗麟の名代である伊藤マンショは、主席正史として使節団の筆頭を務めました。

 興味深いのは、大村純忠の名代である千々石(ちぢわ)ミゲルです。彼も正史であり、使節団の2番手です。

 時に13歳、良く言えばキリスト教の英才教育を、悪く言えば強い洗脳を受けていましたが、彼はキリスト教国家の現実に落胆して、帰国後に棄教することになります。

 日本人を含む多くの奴隷を目の当たりにして、欧州滞在時から不快感を示していたと言います。

 帰国後は、主君の前でも「キリスト教の布教は、異国の侵入を目的としたものである」と公然を言いのけ、棄教を推奨したとされます。

 使節団が帰国した時、日本はキリスト教の弾圧に転じていたので、棄教は保身のためだったいう説があります。

 しかし、彼の地元ではなおキリスト教が盛んであり、こうした言動によって命を狙われたと言いますから、おそらく純粋に失望したのでしょう。

現代の価値観を持ち込むな

 歴史を考える時、当時の背景や価値観が重要であることは理解しつつも、つい現在の観念に引きずられがちです。

 最近の歴史番組では、大友宗麟は「外国人に垣根を作らず、積極的に受け入れた」として、評価する向きがあります。

 「排外主義はいけない。異質であっても受容すべきだ」という文脈で語られることが多く、リベラル的な価値観はここまで浸透しているのかと驚かされます。

 現在の価値観を持ち込むなら、自家の私益のために、積極的に外患を誘致した訳ですから、国益を顧みない売国奴とも言えますが、これもまたズレた意見になります。

 天皇や室町幕府が存在したとは言え、当時は群雄割拠の時期であり、統一国家や国益という概念は希薄だったでしょう。

 それぞれの地域の戦国大名が、生存競争に死力を尽くしたのは当然のことです。

 私たちはあれこれと論じたがりますが、実際の大友宗麟がどうだったかと言えば、ただただ合理主義者だったようです。

 仏教でもキリスト教でも、現世利益のために利用するという姿勢が明確でした。

南蛮貿易という幸運

 大友宗麟は1550年、21歳の時に「二階崩れの変」で家督を継ぎました。この頃の名は義鎮(よししげ)ですが、宗麟の記載で統一します。

 翌1551年、22歳の時にフランシスコ・ザビエルと出会い、布教を認める見返りに南蛮貿易を手がけて、豊後に莫大な富をもたらしました。

 この出会いが宗麟にとって、最大の幸運だったと言えるかもしれません。

 彼は軍事力というより、経済力と外交によって勢力を伸ばしましたが、それを可能ならしめた富の源泉が南蛮貿易だったからです。

 本拠である府内は、西洋文明や技術が流入して、堺のような国際貿易都市に発展していきます。

 こう聞くと、若干22歳の「英断」を喝采したくなりますが、その判断には大友家の背景が色濃く影響していました。

 大友家は鎌倉時代から続く、名門の守護大名であり、対外貿易で巨利を得てきた経緯があります。

 とりわけ、足利義満が行った明国との勘合貿易は、実質的な朝貢として極めて高い利益率になりました。

 実利を得るためとは言え、名目上は自ら明国の属国になった義満を、売国奴として厳しく批判する人もいます。

 正確な数字は分かりませんが、「〇倍返し」などの表現もありますから、異常に儲かったことは確かでしょう。

 属国の貢ぎ物に対して、それ以上の返礼をするのが、明国の習わしでした。

 こうした背景がある大友家では、「貿易は儲かる」という観念が浸透しており、南蛮貿易はそれほど抵抗なく受け入れられ、家中の反対も少なかったのだと思われます。

 そして、そういう環境で育った彼が、経済感覚に優れていたのも、当然と言えば当然でしょう。

 経済の天才と言われる織田信長も、織田家が津島などの港湾貿易で栄える環境で育ち、幼少期から商業経験を積んでいます。

 仮に豊後国が農業一本で成り立つ国であれば、22歳の英断はなかったかもしれません。

 巨利を得た宗麟は、斜陽していた足利義輝に多額の献金をして、一時は九州6カ国の守護となり、九州探題にも任じられました。

 しかし、これは財で買った名目上の大国という面があり、実際は各地に半独立の国人が跋扈していて、豊後国以外の実効支配は強くなかったとされます。

欲しいのは現世利益

 宗麟自身は、別にキリスト教を知って、その思想に傾倒した訳ではなく、現世利益のために利用していました。

 22歳でザビエルと出会いましたが、キリスト教の洗礼を受けたのは49歳であり、実に27年もの間があります。

 57歳で亡くなっていますから、キリスト教徒だった期間は約8年間です。それも人生の下り坂でした。

 33歳の時には出家して、大友宗麟の法名を名乗ります。

 キリスト教に好意を示しながらも、府内最大の寺院である万寿寺を保護して入道し、剃髪して瑞峰宗麟と称しました。

 宣教師たちは困惑したと言いますが、宗麟はキリスト教の保護を続けました。要するに、仏教もキリスト教も、両方とも利用していたのです。

 宗麟は毛利家との戦いの中で、宣教師に硝石を要求しました。

 その際、「私はキリスト教を保護する者であり、毛利はキリスト教を弾圧する者である。大友に良質な硝石を寄越して欲しい。毛利には硝石を与えないように」とする書簡を出しています。

 この時代のややこしさの一端は、宣教師(や茶人の一部)が同時に武器商人だったことにあります。

転落直前の洗礼

 そんな宗麟が、49歳の時にキリスト教の洗礼を受けて、ドン・フランシスコの名を授かります。

 これは強敵・島津家と決戦する約4カ月前のことであり、外国の支援を受けるのが目的だったのではないかと言われます。

 しかし、耳川の戦いは大惨敗に終わり、多数の軍幹部を失うなど、大友家は甚大な被害を受けてしまいます。

 また、一敗地にまみれたことで、それまで従っていた国人らが、相次いで離反しました。

 苦境に立たされた宗麟は、一体どうしたのでしょうか。

 彼は九州の雄としてのプライドを捨て、昇り龍だった秀吉に臣従して、頭を下げて助けを請いました。

 あるいは、外交手腕に長け、かつ合理主義者だった彼らしく、仏教やキリスト教と同じように、秀吉を利用しようとしたのかもしれません。

 宗麟は、洗礼を受けても決戦に敗れてしまい、ご利益を得ることはできませんでしたが、少し違う見方もできます。

 もし島津家との決戦に勝ち、九州の王者になっていたら、秀吉による九州征伐の標的にされたのは大友家だったでしょう。
 その意味では、多少のご利益はあったのかもしれません。

 宗麟は、島津軍により本拠府内を焦土とされて、失意のうちに亡くなります。
 しかし、秀吉軍が島津家を倒して九州を平定した後、宗麟の息子が豊後一国を安堵されて、大友家は命脈を保ちました。

 生き残ったと喜んだのも束の間、息子である大友義統(よしむね)は、文禄の役における敵前逃亡を咎められて、言いがかりや見せしめのような形で改易されてしまいました。

大友宗麟
大友宗麟

わしのすべてだった府内が焼けてしもうた…

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