ザビエルの不思議
イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルは、歴史の授業に登場する西洋人の中で、最も有名かつ人気のある人物の一人です。
彼に悪いイメージを持つ人は、あまりいないのではないでしょうか。
しかし、私は昔からこれに違和感を覚えていました。
子供に人気があるのは分かります。あの髪型ですから。無味乾燥な授業における、一滴の清涼剤なのは間違いありません。
問題は大人の方です。なぜ大人まで、ザビエルを好意的に捉える、または少なくとも否定的には見ないのでしょうか。

それはおそらく「その後の歴史」が影響しています。
日本では、キリスト教の伝来は、当時の新兵器である鉄砲の伝来と強く結びつけて語られます。
そして、この鉄砲を織田信長が積極採用して、その流れが豊臣秀吉による惣無事令、徳川幕府による太平の世に続いたため、結果的には戦国時代を終わらせる「功労者」のような存在になりました。
しかし、その後の歴史が悲惨だったらどうでしょうか。
たとえば、日本が植民地にされて苛烈な支配を受けたり、九州が外国に奪われて日本でなくなっていたりしたら、その評価や見え方は、だいぶ違っていたのではないかと思います。
大航海時代という侵略
エルナン・コルテスによるアステカ帝国の征服は1521年。
フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服は1533年。
一方、日本に鉄砲が伝来したのは1543年。
ザビエルが来日して、キリスト教を布教し始めたのは1549年。
そして、スペイン王国がフィリピン諸島を侵略して、マニラ総督府を設置したのが1571年です。
当時の日本にとって、スペインのマニラ駐留軍は、今そこにある脅威でした。
ポルトガル王国も、1510年にインドのゴア、1511年にマレー半島のマラッカ、1557年頃に中国のマカオを攻略しています。
この流れの中で、日本だけが友好・平和ムードだったと考える方がおかしいでしょう。

世界史では、こうした一連の歴史を「大航海時代」と肯定的に捉えています。
ヨーロッパの視点から、新大陸・新世界を「発見」したと、歴史的快挙のように扱っていますが、征服された側には迷惑でしかありません。
ある日突然、闇バイトに下見されたようなものです。その後に実行グループがやって来るのですから。
この比喩は、あながち自棄くそでもありません。
まず航海者・探検家・宣教師などが、その主観はどうであれ、結果的には間諜の役割を果たして、現地の情報を集めたり、協力者を作ったりします。
その後、その情報や伝手を利用して、軍人が乗り込んで行くのが、当時の流れだったからです。
19~20世紀、帝国主義という悪夢が、アジア・アフリカを席巻することになりますが、大航海時代はその萌芽だったと言えます。
最強クラスの陸軍国
スペインらは、日本を侵略しなかったのではありません。したくてもできなかったのです。
なぜなら、当時の日本は、世界最大級の陸軍国だったから。
全国に戦国大名が存在する上、各大名が擁する侍たちは、戦闘経験が豊富な熟練のウォーリアでした。
鉄砲の保有数は世界有数とも言われ、その軍事力は脅威に映ったことでしょう。
当時は兵農分離が進んでおらず、民の武装率も異常に高いものでした。
何より海という天然障壁が強力ですので、仮に陸軍がそこまで強くなかったとしても、外国の軍が上陸するのは至難の業です。
内乱と混迷が延々と続いたら、危なかったかもしれませんが、ヨーロッパの脅威が強まった時に統一国家が誕生したのは、日本の幸運だったと言えます。
九州の浸食は進んでいたものの、九州征伐で状況を認知した豊臣秀吉が、バテレン追放令を出して歯止めをかけました。
当初は鉄砲などの兵器を取得したり、寺社勢力を牽制するためにキリスト教を利用しましたが、徐々にその危険性を無視できなくなったようです。

たとえば、関ケ原の戦いは、東軍・西軍を合わせると、約16万人が参加した会戦であり、同時代の欧州と比べても大規模な動員でした。
世界最大級だったレパント海戦(1571年)の参加人数は、漕ぎ手を含めて15~20万人と言われます。
フランス宗教戦争で有名なイヴリーの戦い(1590年)が3~4万人、三十年戦争で有名なブライテンフェルトの戦い(1631年)が7~8万人ですから、その数え方が一律でないとは言え、いかに大規模だったかが分かるでしょう。
本国が総力をあげて侵攻するならともかく、遠く離れた極東で駐留軍が倒せるような相手ではありません。
ヴァリニャーノの憂うつ
実際、イエズス会の宣教師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年頃にマニラ総督府に宛てた書簡で、日本の軍事力がいかに高いかを伝え、強く警告しています。
暗に「征服など考えてはならない、中南米と同じと思うのは危険だ」として、警戒を促しました。
ヴァリニャーノは、日本の軍事力だけではなく、その文化や気質も高く評価しており、安易な武力介入には与しませんでした。
現地の実情に合わせた活動をすべきだと説き、布教と通商に重点を置いたとされます。
彼は現地の事情に明るく、当時としては進歩的でしたが、逆に言えば少数派でした。
多くの軍人や宣教師は、いかに日本に浸透するか、または兵士として利用するかを考えていたようです。
実際、マニラ総督府の史料には、キリシタン大名をどうやって利用しようかという発想が、繰り返し登場します。

ヴァリニャーノは、「天正遣欧少年使節」を発案したことでも有名です。
キリシタン大名である大友宗麟の名代として伊藤マンショを、同じく大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルを派遣し、欧州に対して日本を紹介しました。
二人とも大名の血縁であり、どこぞの貧農の子ではありません。
異国のプリンス階級がキリスト教徒になって、はるばる欧州まで来たということで、現地では歓待されたと言いますが、日本から見れば、そこまで工作されていたということです。
同使節団は「世界三大発明」の一つとされる、グーテンベルクの活版印刷機を持ち帰って伝えました。なお、残りの二つは火薬と羅針盤です。
鉄砲にまつわる残念な話
鉄砲の伝来に関して、印象的なエピソードがあります。
1543年、ポルトガル商人が九州南部の種子島に到来し、領主だった種子島時尭(ときたか)に火縄銃を売りました。
史料によって数字は振れますが、よく引用されるのは「2挺で2000両」です。
現在の貨幣価値にすると約1億円とも言われますが、このあたりの換算がどれだけ正確かは分かりません。
確かなのは、法外な高値で吹っかけたということです。
種子島氏の方も、戦闘のあり方を変える兵器だと認識して、購入に踏み切ったのでしょう。
これに歓喜したポルトガル商人は、いったん祖国へ戻った後、大量の火縄銃を仕入れて、再び日本を目指しました。
しかし、到着した時には既に、日本の職人たちが鉄砲の国産化に成功しており、商人たちの思惑が外れたと言われます。
この逸話は、「いかに日本の職人が優れているか」という文脈で語られることが多いのですが、私は「いかにもヨーロッパ人らしいな」と、少しどんよりした気分になりました。
日本はこの手のことを、形を変えて繰り返し仕掛けられています。

鉄砲には、もう一つ笑えないエピソードがありまして、国産化に挑んだ当時の職人は、銃身後端を閉じるネジ構造に苦戦したと言います。
ネジは今でこそ当たり前の小道具ですが、当時は金属を精密にらせん加工するのが難しかったのでしょう。
困った職人は、娘をポルトガル人に嫁がせて、その技術を伝授してもらったと言います。
この逸話は確かな史料がなく、後世の創作ではないかと言われますが、そのような要求が事実だったとしても、なんら不思議はありません。
中南米は壊滅した
中南米を征服したスペイン人は、暴虐の限りを尽くしました。金銀財宝や土地、労働力を求めて、現地を食い荒らしたのです。
特にエンコミエンダ制は悪名高く、先住民を保護・キリスト教化して「守る」ことの見返りに、彼らから税と労働力を徴収しました。
しかし実際は、鉱山や農園で過酷な強制労働をさせて、守るとはほど遠い簒奪を行っていました。
あまりの惨状に心を痛めた聖職者バルトロメ・デ・ラス・カサスは、1542年に「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を出版して、現地の状況を告発します。
そこには虐殺・拷問・焼き討ち・強制労働・餓死などが生々しく語られており、一部に誇張があるとされますが、大きな衝撃を与えました。
何より壊滅的だったのは、天然痘・麻疹・チフスなど、欧州由来の疫病です。
中南米の先住民には、これらの疫病に対する免疫がなく、わずか数十年で人口の大半が失われたとされます。
家畜の文化があり、かつ(日本人の感覚では)不潔な欧州人は、様々な病原菌に対する免疫を獲得しており、意図せず「歩く生物兵器」として機能したのです。
先住民は数千万の単位で病没し、地域によっては人口の約90%が失われたとも言われます。世界史でも最大級の人口崩壊でした。

自分、英雄やらしてもらってますんで。
学生の頃の私はてっきり、コルテスやピサロは犯罪集団の親玉か何かだと思っていたのですが、祖国における英雄だと知って驚いたことがあります。
コルテスは侯爵、ピサロは総督に封じられており、晩年は穏やかではなかったものの、莫大な富を築いています。
二人とも紙幣の肖像になるなど、偉人の扱いなのです。
新大陸から巨万の富を奪い取り、祖国を一大強国に押し上げたのですから、その功績が評価されたのでしょう。
現地の文化にまったく理解を示さず、逆に破壊し尽くしましたが、それも「未開の民族を導いている」と考えていたようです。
サン・フェリペ号事件の衝撃
コルテスやピサロはコンキスタドール(征服者)、平たく言えば軍人です。
それに対して、日本で著名なザビエル、ヴァリニャーノ、ルイス・フロイスらは宣教師なので、全然違うではないかと思われるかもしれません。
しかし、決してそうとは言えないことが、有名な「サン・フェリペ号事件」から分かります。
文禄5年(1596年)、スペインのガレオン船であるサン・フェリペ号が、台風で甚大な被害を受けて土佐国に漂着しましたが、その乗組員による発言が問題になりました。

増田長盛が「侵略のために測量に来たのか」と尋問したところ、航海長は憤ってこれを否定し、世界地図を見せてスペインがいかに広大で、日本がいかに小さいかを説明しました。
そこで長盛が「なぜ、ここまで広大な領土を得たのか」と問うたら、航海長は「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣して、布教とともに征服を事業としている。
まずその土地の民を教化して、後にその信徒を内応せしめて、兵力をもって併呑するのだ」と答えました。
これには、伝聞情報で史料がないとか、イエズス会とフランシスコ会の対立が背景にあるとか、宗教と無関係な軍事行動の例もあるとか、幾つか批判があるのですが、この問答が実際にあったかは別にして、語られていることは多くの事実を含んでいると考えるべきでしょう。
航海者・探検家・宣教師などは、結果的には現地の情報を集めたり、協力者を作ったりしています。
本人たちにその意図がないとしても、彼らが得た情報や伝手を、本国が軍事行動に利用する点には変わりありません。
また、スペインは侵略に際して、現地における抗争を巧みに利用しています。
その国の地図・統治機構・対立構造・内部事情などは、重要な軍事情報になりますから、これらを取得している以上、侵略と無関係とはさすがに言えません。
九州においても実際、奴隷貿易が行われたり、長崎が要塞化されたり、有力なキリシタン大名が生まれたり、寄進によって土地を得たり、教会を設立して寺社仏閣を破壊したりと、浸透工作が進んでいました。
その危険性を警戒して、日本が弾圧に転じた後も、残り火は島原の乱(1638年)まで続きました。
幸いにして大規模な侵攻はありませんでしたが、内乱や外患誘致の種ではあり続けたのです。
悪魔が日本に通りかかった
豊臣秀吉がなぜ朝鮮出兵を行ったのか、その理由には諸説あって明確ではありません。
しかし、迫りくる欧州の脅威から日本を防衛することが、視野に含まれていたのはほぼ間違いないでしょう。
また、徳川家康は後に鎖国と呼ばれる武装中立を選びましたが、これは別に排外主義ではなく、相手を選んで限定的に外交していただけです。
なぜオランダが貿易を認められたかと言えば、キリスト教の布教活動をせず、通商だけをすると約束したからです。
オランダはプロテスタントの国であり、カソリックのスペインなどと異なり、世界布教にそこまで固執しませんでした。
江戸時代の対外窓口としては出島が有名ですが、中国やオランダとは出島を通じて、朝鮮とは対馬藩を通じて、琉球とは薩摩藩を通じて、アイヌとは松前藩を通じて交易を行っていました。
当時の指導層が、キリスト教国家による浸透工作を、いかに警戒していたかが分かるでしょう。
そして、江戸中期までは防衛に成功して、なまじ深刻な被害を生じなかったので、その脅威が過小評価されている面があるのだと思います。
本項は「ザビエルは悪魔の使者かもしれなかった?」というタイトルですが、これはザビエル個人を批判する意図ではありません。
彼には有名人としてスケープゴートになってもらいましたが、真意は「ヨーロッパとの接触」という点にあります。
「日本にも悪魔が通りかかったが、その時は十分強かったので助かった」という意味合いです。
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