鬼滅の刃 鬼とドラキュラ (2)

鬼とドラキュラ (2) その他

執着と解放

煩悩

 鬼滅の刃の鬼は、元々は人間だった者が、「嫉妬・怒り・欲望」などに執着しており、鬼舞辻無惨の血を得て鬼になります。

 これは仏教で言うところの「煩悩」です。

 鬼滅の刃の鬼は、生来の絶対悪ではなく、苦しみに囚われた存在として描かれます。

 したがって、鬼殺隊に討伐された時も、人類の敵を成敗したというより、煩悩で理性をなくした元人間が「解放される」という一面があります。

 鬼たちは最期の瞬間に、人間だった頃の記憶、鬼になってしまった時の悲しい気持ちなどを思い出し、ようやく煩悩から解き放たれて、それぞれの運命を受け入れます。

 その時に鬼殺隊、特に主人公の炭次郎は、理解・同情・慈悲などを示します。

 「悪なる魔物を滅ぼした。善なる人間の勝利である」とはなりません。

 討伐はしたものの、憎み切ることができず、「君も苦しかったんだね」という態度になります。

 炭次郎は、勝利をあまり喜ばないばかりか、鬼が苦しみながら消える姿を見て、涙を流すことすらありました。

 神の裁きや正義の鉄槌、勧善懲悪という単純な善悪二元論が当てはまらないのです。

 そこにはなぜか、救済のような要素が見られます。この点が、ダークファンタジーにしては珍しい特徴です。

輪廻転生

 鬼たちが滅んだ時は、たとえば次のように描写されていました。

・家族と再会、または和解する。
・涙を流して、悲しい過去を受け入れる。
・罪を認めて地獄へ行く。

 「人間は弱い存在であり、誰しも悪に染まる可能性がある。しかし、生まれついての絶対悪ではなく、悔い改めることができる」という観念が根底にあります。

 悔い改めるのは、現世とは限りません。輪廻転生(りんねてんせい)によって、来世でやり直すという道も残されています。

 鬼滅の刃では最終回に、現代に転生した人々が登場しました。

 そこでは味方の主要人物が中心に描かれていましたが、おそらく執着から解放された鬼たちも、どこかで転生していたのではないでしょうか。

一神教と多神教

 魔物を討伐するヒーローもの、特にダークファンタジーにおいては、敵が驚異的であることから、一神教的な世界観になるのが通常です。

 しかし、そこに多神教的な価値観を組み合わせた点に、鬼滅の刃の独創があります。

善悪の二項対立

 一神教であるキリスト教的な価値観と、多神教である仏教的な価値観を、おおまかに比較してみましょう。

 一神教の特徴は、神の位置づけが全知全能の「絶対善」であることです。

 神という善が明確なので、その裏返しとして悪も明確になります。

 つまり、悪とは神に反逆する者、神が創った秩序を乱す者であり、絶対善の神に仇なす「絶対悪」として描かれます。

 それは恐るべき敵であり、討伐・殲滅すべき対象であり、分かりやすい善悪の二項対立になります。

 そして、敵を成敗した時には、勝利のカタルシスを素直に感じることができます。神が創造した世界を脅かす、忌まわしき悪魔が排除されたからです。

正義の鉄槌

 一神教を信奉する国々において、公開処刑や火刑が好まれたのは偶然ではありません。

 公の場で共通の敵に、神の裁きとして正義の鉄槌を下すことは、民衆の強い関心事であり、娯楽という側面もありました。

 人々はその光景を見て、現在の支配者に従順になり、悪が消えたことに安心感を覚えます。

 火刑が多いことも見逃せません。火には「浄化」という意味があったからです。

 火刑に処すのは、悪を苦しめることに加えて、忌まわしき存在を焼き払い、その存在を消すのが目的でした。

恵みもあれば、災害もある

 それでは、多神教の方はどうでしょうか?

 多神教は一般に、自然豊かな地で信仰される傾向があります。

 水が豊かで自然に恵まれており、作物が取れやすいことが多く、そこかしこに恵みがある(神がいる)という環境だからです。

 一方で、こうした地には自然災害が多く、「神は恵みを与えることもあれば、災いを与えることもある」という二面性を、人々は認識しやすくなります。

 これは厳寒の痩せた地や灼熱の砂漠など、作物がなりにくい地で一神教が信仰されるのとは対照的です。

 厳しい土地には恵みが少ないので、心の中に救世主を描かざるを得なかったのでしょう。

責任を取ってやり直す

 多神教の場合、神々にはそれぞれ個性や役割があります。全知全能ではなく、人間のように不完全で、感情に揺られたりします。

 悪は生まれながらの絶対悪ではありません。誰もが悪になり得る弱さを持つとされており、悪すら神の一部だったりします。

 善悪の基準がはっきりせず、調和の方が重視されており、和を乱すことが嫌われます。

 したがって、悪の倒し方は、一神教とはまるで異なり、次のようになります。

・責任を取らせる。
・共同体に詫びを入れて、調和を元に戻す。
・潔く責任を取る意思を見せたら、必要以上には苦しめない。
・煩悩を消して、荒ぶりを鎮める。
・苦しみから解放する。許して弔う。
・輪廻転生してやり直す。

 日本人であれば、こちらの考え方に親近感を覚えるでしょう。私たちは、子供の頃からそのような価値観をインストールされています。

鬼にも事情がある

 ヒーローものや、RPGの世界では本来、一神教的な世界観がよくマッチします。

 主人公が欲に駆られて闇落ちしたり、魔王に共感できる悩みがあったりしたら、世界観が壊れてしまいますから。

 そういう尖った角度で描かれた作品も、あることはありますが、主流派とは言えません。

 鬼滅の刃の秀逸な点は、ダークファンタジーの世界観を維持したまま、それを壊すことなく、上手に多神教的な要素を取り入れたことにあります。

 鬼殺隊が鬼と戦って、これを討ち果たすまでは一神教的な描き方をしますが、最期の瞬間だけ多神教的な描き方をします。

 鬼が滅ぶ直前に、過去の記憶や悲しい気持ちを思い出して、それまで執着していた煩悩が消えていく。自分が鬼となって犯した罪を認める。

 そうした姿を見て、炭次郎は必要以上に苦しめることなく、逆に理解や共感を示したりします。人間の心を思い出した鬼たちが、安らかに逝くことを願って。

 この緩急が絶妙であり、鬼の回想シーンに入った途端、それまでの緊張感から空気が一変します。

鬼舞辻無惨の野望?

 非常に興味深いのは、総帥の鬼舞辻無惨ですら、煩悩に囚われていたことです。

 無惨は神に反逆したかったわけでも、世界を征服したかったわけではありません。彼の動機は「死にたくない」。実はこれだけでした。

 彼は生まれつき病弱でした。作中では、次のような過去が語られています。

・「20歳まで生きられない」と言われる重病だった。
・死の淵を何度もさまよった。

 医師は無惨を助けるために、青い彼岸花(ひがんばな)を材料とした薬を作りました。

 しかし、無惨は薬の効果が現れる前に、効き目がないと思い込んで、怒りのあまり医師を殺してしまいます。

 その後、薬は効果を発揮して、無惨は鬼になりました。

 このエピソードには、彼の「待てない・失敗を許さない・恐怖で心乱れる」という性格がよく表れています。無惨はこの傾向を、最後まで引きずりました。

最後まで「死にたくない」

 無惨は鬼になることで、圧倒的な生命力を得ましたが、その代償として、太陽の下で生きられなくなりました。

 ここから、彼の人生の目的は「太陽を克服すること」になります。

 無惨は血を分け与えることで、多くの鬼を生み出しました。しかし、これは世界を支配するためではありません。

 青い彼岸花を探すこと、及び太陽を克服できる鬼が現れるか試すことが目的でした。

 物語の後半、無惨が禰豆子(ねずこ/炭次郎の妹)に執着したのは、禰豆子が「太陽を克服した鬼」だったからです。それは無惨が探し続けた存在でした。

 最終盤、鬼殺隊に足止めされて夜明けが近づいた時、無惨が考えたのは、なんとか「逃げる」ことでした。

 恐ろしい悪魔のように見えて、彼は非常に人間的です。最初から最後まで、彼は「死にたくない」という煩悩に突き動かされていました。

煩悩の物語

 鬼殺隊は、死を受け入れる覚悟を決めて、他人を守ることを選びました。

 一方、無惨は死を拒絶するために、他人を犠牲にし続けました。この対比は、作品全体に通底するテーマです。

 人は必ず死ぬ。だから、今を精一杯生きる。たとえ自分が死んでも、意思は後進に継がれていく。鬼殺隊は「意思の継承」を信じました。

 これは永遠の肉体を求めた鬼とは対照的です。

 炎柱・煉獄杏寿郎の一幕は象徴的でした。「鬼になれば、永遠に強くなれる」として、鬼になれと誘われた煉獄は、それを一顧だにせず断ります。

 「老いることも、死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」と。

 鬼たちは皆、煩悩の塊と言える存在でしたが、最後に執着を手放して、人間の心を取り戻した者もいれば、最後まであきらめることができず、後悔・醜態だけが描かれた者もいました。

 鬼滅の刃は、誰がどう読んでも楽しめる傑作ですが、「煩悩」を軸にして読んでみると、新しい発見があるかもしれません。

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