数学が近代兵器を作る
鍋島直正は、破綻寸前だった佐賀藩の財政を立て直した上、日本屈指の技術立国に育て上げました。
それだけでなく、教育にも大きな成果を残しています。
というより、正しくは財政を立て直して、人材を育てたからこそ、軍事・工業技術を飛躍させることができた、という流れになるでしょう。
直正は、藩校の「弘道館」を大幅に充実させました。
一般的な藩校では、儒学・漢学・兵学が中心でしたが、佐賀藩ではこれを数学・天文学・蘭学などに拡張します。

とりわけ数学に重点を置きました。大砲を製造及び運用するためには、設計・製図・測量・弾道計算などが必要となるからです。
数学ができなければ、近代兵器を作れない、あっても使えないという理由でした。
直正には「西洋技術を学ぶことは国防である」という意識があり、藩士たちに蘭学を学ぶことを求めました。
当時、蘭学は医者の学問と思われており、武士には軽視されがちでしたが、直正は自らが「蘭癖大名」と呼ばれるほど、これを重視しています。
武士の教養は、長らく四書五経とされていた時代です。
佐賀のような先進的な藩と、取り残された旧式の藩では、藩士たちの受けた教育がまるで違うのです。
前述の通り、徳川幕府が長崎で実施した海軍伝習にも、多数の佐賀藩士が送り込まれました。
学ぶことは合戦と同じだと思え
人材こそ要と考えた直正は、上級武士に限ることなく、すべての佐賀藩士に藩校で学ぶことを奨励しました。
今でいう義務教育の先駆けのようなイメージです。

佐賀藩は、藩士全体に教育を施した上、厳しい試験を実施して、成績優秀な者を登用する制度を採ります。
家柄より能力を重視して、技術者を重用するという、当時としては異例の環境でした。
「家柄がよければ安泰」ではなく、必死に学ばなければ職にありつけなかったり、家の評価が落ちたりするわけですから、親子ともども真剣に取り組みました。
直正は「学ぶことは合戦と同じだと思え」と言って、藩士の子弟らを激励しました。
一部には「落第したら俸禄を削減・没収された」などの俗説もありますが、これには確かな史料がないようです。
ただ、当時の佐賀藩士たちには、「勉強しないと家が潰れかねない」という危機感があり、そうした空気が俗説につながったのかもしれません。

佐賀の吉田松陰
佐賀の教育と言えば、枝吉神陽(えだよししんよう)に触れないわけにはいかないでしょう。
彼は「佐賀の吉田松陰」とも評される傑物で、その門下生には次の通りそうそうたる顔ぶれがいます。
副島種臣 外務卿・参議(枝吉神陽の実弟)
大隈重信 首相(2回)・大蔵卿・外務大臣・教育者
江藤新平 司法卿・参議
大木喬任 文部卿・司法卿・東京府知事
島義勇 北海道の開拓判官・札幌の設計者
佐野常民 農商務大臣・日本赤十字社の創設者
佐賀藩は、維新で活躍した革命家こそ少なかったですが、明治期に国家を設計した要人を多く輩出しています。
また、こうした著名人に限らず、知名度は低いながらも、多数の技術官僚を生んでいます。
薩摩と長州は、多くの政治家や軍人を生みました。藩閥が酷すぎて、薩長政治という言葉があるほどです。
土佐は、坂本龍馬や岩崎弥太郎で知られる通り、優れた実業家を生みました。
それに対して佐賀は、明治期を支えた制度設計者や技術者、今でいうところのテクノクラートを多く輩出しています。
佐賀の松下村塾
吉田松陰は革命家の教師でしたが、枝吉神陽は同じ尊王でありながら、まったく毛色の違う人材を育てました。
枝吉神陽は弘道館で教鞭をとる一方、嘉永3年(1850年)、29歳の時に「義祭同盟」を結成します。
義祭同盟は、表向きは楠木正成を顕彰する集まりでしたが、実際には若手藩士が国家の将来を議論する団体でした。

薩摩や長州であれば「どのように戦うか、どう倒幕するか」などが議論されそうですが、佐賀はそうではありません。
・国家とは何か。
・天皇と幕府の関係はどうあるべきか。
・日本はどう変わるべきか。
こういう議論が交わされました。このような学び場の卒業生が、明治政府の黎明期に活躍したのです。
松下村塾がその後の長州に、義祭同盟がその後の佐賀に強く影響するわけですから、学び場の差というのは非常に興味深いところです。
枝吉神陽は、幼少期から神童として知られており、27歳で昌平坂学問所の舎長を務めた天才です。
しかし、意外にも大柄な体躯で、豪放磊落(らいらく)だったらしく、声を出すと障子が震えたとか、下駄で富士山を登ったとか、驚いてしまう逸話が残っています。
賢人の生みの親
枝吉神陽の父である枝吉南濠は、「日本一君論」という思想を唱えました。
これは簡単に言えば、「日本は唯一の君主である天皇を戴いており、幕府も諸侯もその臣下である」という考えです。
後の尊王思想につながるものですが、これを継いだ枝吉神陽は、単なる精神論にとどまりませんでした。
・国家の仕組みを考える。
・人材を育てる。
・制度を設計する。
このように「いかに現実に落とし込むか」という方向に進んでいきます。
技術と実践を重視した佐賀藩らしさが出ており、父が唱えた日本一君論に、鍋島直正の志向が反映されている面があります。

藩主の鍋島直正と、義祭同盟が輩出した6人を合わせて「佐賀の七賢人」と呼びますが、ここに枝吉神陽を加えて、「佐賀の八賢人」と言うこともあります。
外交の副島種臣、政治・財政の大隈重信、司法の江藤新平、教育の大木喬任、開拓の島義勇、そして福祉・人道の佐野常民。
これらの賢人の生みの親とも言える枝吉神陽は、残念ながら41歳の若さで亡くなります。
コレラに感染した妻を看病して、自らも感染してしまい、先立った妻を追うように、その2日後に世を去りました。最期までその人柄が表れています。
理想と現実
佐賀藩がその功績に比べて、今ひとつ地味な理由は、次の通りいくつか考えられます。
・初期から活躍した著名な革命家がいなかったこと。
・勝ち組の見極めるために、表舞台への登場が遅れたこと。
・明治維新の3年後に、鍋島直正が亡くなったこと。
・維新後に佐賀の乱が生じたこと。
痛恨だったのは「佐賀の乱」でしょう。
廃藩置県や四民平等によって、武士の基盤が解体された結果、固定給の俸禄を失った元武士は、生活苦に直面することになります。
一部は官僚として政府の職を得たり、一部は商工業に転じて適応しましたが、失業して日々の糧を失い、没落していく武士も多くいました。
武士の娘が身売りするなど、それまでは珍しかったことが多発します。

明治維新は成りましたが、身分と収入源を失った元武士の不満が、全国的に渦巻いていました。
新政府の理想と現実に落胆した者も多く、激変する混乱期にあって、社会は不穏な空気に包まれていきます。
佐賀の乱
そして、明治6年政変(征韓論争)によって新政府が分裂すると、これに敗れて全国に散ったエリート層が、不平士族を率いて次々と反乱を起こすことになりました。
佐賀はその皮切りとなり、江藤新平と島義勇を指導者として、明治7年(1874年)に佐賀の乱を起こします。
その後、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが相次ぎ、最終的には明治10年(1877年)の西南戦争に帰結して、日本を揺るがす内乱に発展していきます。
佐賀の乱を起こした時、江藤新平らは全国の不平士族が呼応すると踏みましたが、実際にはその期待が外れて、孤立した反乱になってしまいます。
新政府が、電信による情報伝達や汽船による輸送などを利用して、迅速に対処したこともあり、わずか数週間で鎮圧されました。

江藤新平と島義勇は乱の指導者となった一方、大隈重信や大木喬任は新政府に残留しましたので、佐賀の賢人同士で争うことになりました。
これは個人の対立にとどまりません。その支持者たちを巻き込みますから、佐賀を二分してしまいます。
強い求心力だった英傑、鍋島直正が存命であれば、展開はまた違ったのかもしれませんが、彼は残念ながら佐賀の乱の3年前に逝去しています。
こうして政治的影響力を落とした佐賀は、少なくとも表面的には、薩長政治の陰に隠れていくことになりました。
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