正岡子規の異常な食卓 仰臥漫録 結核 脊椎カリエス

正岡子規 ブログ

闘病人生

 正岡子規と言えば、「柿食えば、鐘が鳴るなり、法隆寺」で有名な俳人ですが、一方で壮絶な闘病生活を送った重病人でもありました。

 歴史好きの諸兄は、日露戦争を描いた小説「坂の上の雲(司馬遼太郎著)」で、子規が脊椎カリエスなど、多くの病気の併発に苦しんだ描写を覚えておられるでしょう。

 2009年~2011年にかけて、NHKが放映した同小説のスペシャルドラマ(傑作!)では、香川照之氏が演じる正岡子規の痛々しい姿が印象的でした。

 私は長らく、子規は生来の障害によって、多くの疾病を患ったのかと思っていましたが、事実は異なります。

 子規の異常な病気の一因は、その「異常な食卓」にありました。

 彼の死因は、一般に結核と脊椎カリエスと言われていますが、その症状悪化が深刻だったのは、食事が大きく影響しています。

 日本は現在、食生活の乱れと薬漬け医療によって、病人大国になってしまいましたが、子規にはその先駆けという面がありました。

仰臥漫録(ぎょうがまんろく)

 子規は幼少期からあまり丈夫ではなく、21歳で喀血して結核と診断されます。

 ストレプトマイシンなどの治療薬がなかった当時、結核は「不治の病」とされており、この時点で子規は死を意識させられます。

 叔父の伝手で記者の職を得ますが、日清戦争へ記者として従軍したことが、彼の病気を大きく悪化させました。

 1895年(明治28年)、27歳の頃に、帰国途上の船上で大喀血して重体となり、そのまま入院することになります。

 その後、結核菌が伝播したためか、やがて腰痛で歩行困難となり、遂には脊椎カリエスでほぼ寝たきりの生活になってしまいました。

 しかし、消化器系は患わなかったので、生来の食欲は依然として旺盛であり、そこに「生への執着」が重なって、子規は病人とは思えない量の食事を続けることになります。

 辛い闘病生活における、唯一の楽しみでもあったのでしょう。吐くまで食べる日もあったと言われますから、かなり異常な状況です。

 彼は文人らしく、日々の食事内容を仔細に記録して、「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」という著書にまとめています。その内容が驚愕なのです。

異常な食卓

 ある日の食事は、記録によれば次の通りです。

 朝食
 ご飯3杯 佃煮 梅干 せんべい 菓子パン ココア入りの牛乳1合

 昼食
 お粥2杯 マグロの刺身 なら漬 胡桃の煮付 大根もみ 梨1個

 間食
 餅菓子 菓子パン せんべい

 夕食
 お粥3杯 キスの味噌田楽2尾 刺身 ふきなます なら漬 梨1個 ブドウ1房

 まるで育ち盛りの中学生や、屈強な肉体労働者のようです。こういう食事を、寝たきりでほとんど動かない病人が、毎日のように食べていたのです。

 別の日の記録には、一食で鰻の蒲焼きが7串とか、一食でカレーライスが3杯とか、目を疑う内容が出てきます。

 食と健康に詳しい人が見れば、「そりゃあ、病気になるよな…」と、どよーんとした気持ちになるでしょう。

 なお、東京は根岸にある「子規庵」では、子規の記録を元に再現したご膳の模型が展示されています。

 根岸は聖地(性地)鶯谷の正式な地名です。

 鶯谷というのは、JR山手線の駅名にもなっていながら通称であり、地図上は根岸と表示されます。

 子規庵がラブホテル街のすぐ近くにあるのは、わりとシュールなコントラストです。

代表作にも食べ物

 子規の食に対する執着は、その代表作「柿食えば…」という俳句にも表れています。

 ここでも食べ物、好物の「柿」なのです。

 子規は果物全般を好みましたが、とりわけ柿が好きだったらしく、病床においても一日何個も食べていたと言われます。

 ちなみに、柿は消化に悪いことで知られており、特に胃腸を手術した過去がある人などは、多量摂取によって胃石や腸閉塞を起こす可能性があります。

 未成熟の柿を一度に多食することは、できれば避けた方がよいでしょう。

 子規のこの名句は、夏目漱石が彼に宛てて詠んだ「鐘つけば、銀杏ちるなり、建長寺」に対する返礼句だとされます。

 二人の親交は深かったようで、若い頃は「あしが鰻丼をおごるぞな」と言って、食事に誘っておきながら、結局その代金を漱石に払わせたという逸話もあります。

 子規は病気に苦しんだ人生ながら、なぜかそれほど陰鬱なイメージが強くありません。

 それは彼のユニークな性格や、数あるちゃっかりエピソードなどが関係しているのでしょうか。

家族の人生も狂う

 子規の看病をしていた妹の律は、吐くまで食べる兄を見かねて、何度かその大食ぶりをたしなめましたが、子規は妹の正論を無視しました。

 正岡家の食費は、月によっては収入の約6割に及んだと言いますから、そのエンゲル係数は相当に高いものでした。

 母の八重と妹の律が、なまじ献身的に介護したことが、子規の病状を重くしていたのは皮肉なことです。

 誰しも、彼女らと同じ状況に置かれれば、病気に苦しむ家族の希望を優先したいと思うでしょう。

 しかし、子規が過剰糖質と大食で自分を苦しめた一方、その食費をまかなうために粗食を続けた彼女らは、元気に長生きしたわけですから、なんとも複雑な結果です。

 子規の異常な食癖は、彼自身の人生はもちろんのこと、家族の人生も狂わせました。これは罪深いことと言えます。

 特に妹の律は、その人生の大事な一部を、兄の介護に費やすことになりました。

 1893年(明治26年)に介護を始めてから、1902年(明治35年)に亡くなるまで、実に9年間です。

 特に、脊椎カリエスと診断された1896年(明治29年)からは、ほぼ毎日介護に時間と労力を取られたのですから、その重荷は想像に難くありません。

 それは彼女の貴重な20代でした。

 「俺の人生なんだから、俺が何を食べようと勝手だろ」とはならないのです。

 仮に家族が介護しなくとも、食源病によって健康保険・介護保険を使い散らかせば、それは他人様に広く迷惑をかけています。

 自戒を込めてですが、このあたりは注意したいところです。

 菓子パンだけで生きている人や、朝昼晩夜とラーメンを食べている人がいたら、ぜひ正岡子規の一生に恐れおののいてください。

胃弱の漱石は助かった

 子規の友人である夏目漱石もまた、かなりの甘党として知られました。

 彼は甘い和菓子を好み、その作品の中でも甘味に関する描写が多いと言われます。

 門下生や家族の証言としても、よく「甘い物好き」と語られており、羊羹を一度に1本まるごと食べたという逸話もあります。

 当時は今と異なり、甘味はぜいたく品でした。特に洋菓子は貴重だったことでしょう。

 そして、栄養学も発達しておらず、「甘味は栄養補給になって体に良い」と捉える風潮もありました。

 こうした事情や誤解が、西洋文明に接するのが早かった当時の華族や知識階級に、食生活に起因する病気が多かった背景になっています。

 子規の食事にも、甘いものが多数でてきますが、これは単に楽しみだっただけでなく、栄養補給や治療をしているという誤認もあったのでしょう。

 昔のことのように思えますが、「体に良いと思って、意識して摂取し続けているものが、実は体を蝕んでいる」という残念なパラドックスは、現在も普通にあります。

 夏目漱石が幸運だったのは、病気だらけでも食欲旺盛だった子規と異なり、健康体でも胃腸が弱かったことです。

 漱石は強い精神的ストレスから、胃潰瘍に悩んだと言われますが、そのことが彼に本能的なブレーキをかけていました。

 もし彼にこのようなブレーキがなく、好き放題に甘味を食べていれば、その晩年はもっと病に蝕まれた、悲惨な人生だったかもしれません。

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