前回「敵を英雄にしたがる徳川」では、徳川史観の歪みについて語りましたが、次は秀吉の視点に触れてみたいと思います。
豊臣秀吉には、徳川家康とはまた違うこだわりがあります。
期間が短いので、徳川史観ほどの影響力はありませんが、こぼれ話程度の面白さはあります。
神になりたがった秀吉
秀吉の歴史叙述で目を引くのは、敵を貶めること以上に自分を神話化したことです。
これは農民を出自とする、彼らしい特徴と言えるでしょう。
神が農民の子として現世に降り、運命に導かれるように頭角を現して、日本を統べるようになったというストーリーです。
農民からのし上がった秀吉には、次のような権威が一切ありません。
・源氏や平氏などの名門の血筋
・代々の守護大名の家柄
・将軍家との血縁
織田信長や徳川家康は、「名門ではないが、それなりの家格はある」という出自でしたが、秀吉はそれすらありませんでした。
そこで「家柄ではなく、天命によって選ばれた」という物語が必要だったのです。
最も有名なのが「日輪受胎」です。

これは秀吉の母が太陽の光を受けて、秀吉を身ごもったという話です。
天照大神の象徴である日輪(太陽)が、秀吉という天に選ばれた人物を、母に宿したのだと主張します。
普通の出生譚ではありませんが、太閤記などにはこの種の伝説が盛り込まれました。
キリスト教の世界観でも、聖母マリアがイエスを処女懐胎したとされますが、出自に弱点がある指導者は、こういう手法が使われるようです。
中国皇帝や宗教の聖人によく見られる、「偉人は神秘的な誕生をする」という類型でもあります。
権威が欲しい
徳川家康は、自分を「源氏の嫡流」とすることで、権威付けを図りました。
かなり強引な系譜操作によって、松平家を新田・源などに結び付けています。
これは松平家が、伝統ある名門ではなくとも、それなりの家格だったからこそ可能なことでした。

家格がないに等しい秀吉は、神話によって自らを神格化するしかありません。
秀吉はその出自ゆえに、譜代の家臣探しにも苦労しましたが、権威付けにも頭を悩ませています。
ハードワーカーの便利屋
秀吉は後世の伝記で、幼少期から利発だったという演出がされています。
・幼い頃から知恵者
・誰もかなわない弁舌家
・不思議な幸運の持ち主
しかし、前半生はそもそも史料が乏しく、こうした非凡さは確認できません。
家臣時代についても、信長が秀吉の才能をすぐ見抜いて抜擢した、というわけではありません。
天才を発見した信長と、天命を持つ秀吉という設定で、両方を持ち上げたがりますが、実際は長年にわたり下級家臣として働いています。
年次には諸説あるものの、秀吉が仕官してから頭角を現すまで、10~15年はかかったようです。

織田家の転換点となった桶狭間の戦いでは、ほとんど存在感がありませんでした。美濃国を攻略する段階で、ようやく名を上げていきます。
江戸時代に「木綿藤吉」という秀吉評が生まれますが、現実はこちらに近かったようです。
木綿という安価で一般的な、しかし広い用途に使える、便利で生活に欠かせない布のような存在だったのです。
実際の秀吉は、幾らでも泥水をすするハードワーカーの便利屋として、厳しい出世競争を勝ち抜きました。
有能な実務家
なぜ信長は、秀吉を重用したのでしょうか。
彼には、柴田勝家のような武勇もなければ、明智光秀のような教養もありません。
しかし、秀吉は交渉力・事務能力・人脈形成力・実行力などが、極めて高かったと考えられます。
信長の天下統一事業が大規模になってくると、単に武勇に優れる者より、占領地の統治や調略ができる人材が求められました。
秀吉はまさに、その需要に合致したというわけです。
彼は信長に見出された天才というより、10~15年かけて実績を積み上げ、織田家の拡大とともに評価を高めた、叩き上げの有能な実務家だったと言えます。
野心家が忠臣を倒す
秀吉は覇権を握る過程でも、正当性を示すために情報を操作しました。豊臣史観によって、過小評価された人物の一人は柴田勝家です。
勝家は織田家の筆頭家老であり、家中で随一の実力者でした。
武勇に優れるだけでなく、部下たちから「親父殿」と慕われた人格者でもあります。
上杉謙信と対峙する北陸方面軍の司令官を任されており、信長の信頼も非常に厚いものでした。
本能寺の変で信長が討たれた後も、織田家をまとめるために奮闘しました。
未亡人だったお市の方を娶って、主家に忠義を示す覚悟を内外に示しています。
当時の常識で言えば、勝家こそが武士の価値観に適う、立派な存在だったと言えます。
お市の方(信長の妹)を娶り、織田信孝(信長の三男)を担いだ、正当後継と見られる勢力だったのです。

仮に賤ケ岳の戦いで勝家が勝っていれば、羽柴秀吉という野心家を倒した「織田の忠臣」と評価されていたことでしょう。
しかし、実際は秀吉という野心家が、勝家という忠臣に勝ったため、秀吉が「有能・正当」であるというストーリーが作られていきます。
柴田勝家は猪武者なのか?
秀吉はいかに取り繕ったところで、言わば簒奪に近い形で主家を乗っ取ったのですから、あまり勝家が持ち上げられては困ります。
そのため、勝家は武勇はあるが、時代遅れの猛将である。政治力がなく、織田家を継ぐ器量ではない。こういうイメージで過小評価されました。
軍記物などでは、秀吉を引き立てるために、頑固・融通が利かない・政治音痴という描かれ方をします。
しかし、実際の勝家は武辺一辺倒ではなく、有力な行政官・統治者の一人でした。
信長は幾つかの方面軍を編成しましたが、こうした巨大組織を統括する司令官には、多様な能力が求められます。
徴税・兵站・城郭管理・国人統制・外交などが必要であり、武勇だけの猪武者には到底、務まるポジションではありません。
軍団長に任命されている時点で、他の司令官(明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益など)に匹敵する行政手腕を、信長が認めているということです。
勝家だけの政治力が、極端に低いと考える方が不自然でしょう。

また、北陸は一向宗の勢力が強い地域でしたが、注目すべきは勝家の統治期間中に、情勢が比較的安定していたことです。
大きな一揆が頻発することはなく、難しい性格の領国経営が一定程度、成功していたと見て取れます。
前田利家・佐々成政・不破光治など、優秀な家臣団の支持を受けており、人心の掌握術にも長けていました。
そもそも、織田信勝(または信行/信長の弟)の陣営から、信長の元へ帰参した後には、城代や奉行的な業務を任されています。
最初から「軍事だけの人間」ではないのです。
20年以上も信長に重用されて、期待に応え続けた勝家は、その中で実務経験を積み重ねて、後年の大軍団長になったと考えるべきでしょう。
鬼柴田・瓶割り柴田・かかれ柴田などの異名は、確かに彼の優秀さを示していますが、その一面でしかありません。
織田信雄はバカ殿なのか?
秀吉によって過小評価された人物は、柴田勝家の他にも佐々成政・明智光秀・北条氏政などがいますが、ここで取り上げたいのは織田信雄(のぶかつ/信長の二男)です。
織田信雄は、元々バカ殿として名高い(?)ので、意外に感じるかもしれませんが、彼は必要以上に貶められている可能性があります。
信雄が過小評価された理由は、やはり秀吉に敗れたからですが、それだけではありません。
本能寺の変の後、羽柴秀吉が織田信雄を担いだ一方、柴田勝家は織田信孝(信長の三男)を担ぎました。
賤ケ岳の戦いは、秀吉・信雄側が勝ちましたから、敗軍である勝家・信孝側は、歴史の中で貶められることになります。

ここまではよいのですが、問題はその次です。
信雄は、今度は徳川家康と組んで秀吉と対立し、小牧長久手の戦いを起こしました。
小牧長久手の戦いは、戦術的には野戦上手の家康が勝ちましたが、戦略的には秀吉に軍配が上がります。
秀吉が信雄と交渉して、単独講和をしてしまったのです。
この交渉で蚊帳(かや)の外に置かれた家康は、信雄という大義名分を失ってしまい、講和せざるを得なくなりました。
これは家康にとって、かなり迷惑な行動でした。大枚をはたいて軍事出動して、しかも戦闘では勝っておきながら、大した果実もなく終わらされたからです。
結果として、信雄は豊臣史観からも、徳川史観からも嫌われる存在になり、低評価を決定づけてしまいました。
名門「北畠」を継ぐ者が無能?
織田信長はその拡大期において、息子たちを各地の大名家へ送り込んでいます。
信忠(嫡男)は後継者なので除くとして、信雄(二男)は北畠家を、信孝(三男)は神戸家を相続しました。
北畠家は、南北朝時代から続く屈指の名門で、家格だけで言えば当時の最上級です。金看板と言ってよいでしょう。
一方の神戸家は、北畠家の一族であり、主従関係にあった有力支族です。
これは織田家にとって重要な任務でした。
伊勢国支配のキーパーソンになるというのに、将来が危ぶまれる無能を、果たして信長が選ぶでしょうか。
毛利家で言えば、吉川家を継いだ元春、小早川家を継いだ隆景のポジションです。

また、本能寺の変が起きた時点で、信雄は伊勢・尾張を支配していました。
決して小物ではなく、むしろ全国有数の大勢力です。
これを曲がりなりにも統治していたのですから、結果的には秀吉にいいようにやられたとは言え、バカ殿代表のような扱いはやり過ぎのように思えます。
嫡男の信忠も、三男の信孝も英明だったと言われます。二男の信雄だけ不自然に無能というのは、考えてみればおかしな話でしょう。
悲劇がないという悲劇
秀吉は本能寺の変の後、絶妙に上手くやりましたが、しかしその時点ではまだ、信雄・信孝という圧倒的な血統上位と、勝家という忠義ある実力者がいました。
これらをそれぞれ蹴落とした上、自分こそ正当であるというストーリーを組み、周囲を納得させたわけですから、このあたりにこそ、秀吉の真骨頂が表れているのではないでしょうか。
信雄は、敗れて過小評価された人間の中では、穏やかなその後を迎えました。
秀吉に臣従して大名として存続しますが、1590年の小田原征伐において参陣命令に従わず、また領地替えにも反対したことで、改易(領地没収)されてしまいます。
しかし、処刑は免れて生き延び、徳川家康の時代になると大名として復帰して、晩年には大和宇陀などの領地を与えられました。
江戸時代まで生きて、1630年に死去しています。
非業の死を遂げた勝家や信孝に比べると、随分と平和的に見えますが、悲劇性がなかったことがまた、日本人の琴線に触れなかった一因かもしれません。
その意味では、悲劇がなかったことが悲劇とも言えますが、殿様に復帰して長生きできたのですから、翻弄された血筋にしては悪くありません。
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