戦国時代の武士は、幼名と諱(いみな/正式な名前)以外にも、通称・官職・法号などを持っており、一人の人間が複数の名で呼ばれました。
このあたり、当時の社会・文化が分かって面白くはあるのですが、現代の私たちの感覚では混乱してしまいます。
ひとりが複数の名前を持つ
有名な戦国大名・武将の名前を整理してみましょう。

こうして見ると、現在一般に普及している名前が、通称や法号である例が少なくないことが分かります。
私たちがよく知る武田信玄・上杉謙信・大友宗麟・黒田如水は、いずれも本名ではなく、仏門に帰依して得た法号です。
また、木下藤吉郎・竹中半兵衛・黒田官兵衛も本名ではなく、日常的に用いられた通称です。
真田幸村に至っては、後世に創作された通称で、本人は幸村とは名乗っていません。実際は真田信繁でした。
大友宗麟は、キリシタン大名として有名なのに、出家して名乗った法号・宗麟で知られているのは、イメージと異なるかもしれません。
しっかり剃髪していますが、先入観があるためか、意外に仏教を連想しなかったりします。なお、キリスト教の洗礼名は、ドン・フランシスコでした。

本名が最も呼ばれない
なぜ正式な名前である諱より、通称や法号のほうが広く知られた例が、少なくないのでしょうか?
それは実際には、通称や法号で呼ばれるのが大半だったからです。
諱は本籍のようなもの
非常にユニーク、かつ分かりにくいのは、正式名称である諱が「最も使用される頻度が少ない」ということです。
諱は現在で言えば、戸籍上の本名に相当します。日常的に使用する通称は、この時代は別にありました。
とは言え、私たちは本名と通称の区別がないので、なかなか想像しにくいでしょう。
ですから、「本籍」を想像してみてください。
私たちが普段使用するのは、住所(住居表示)であって、これとは別に戸籍上の本籍があります。
本籍は、戸籍関連の行政手続(婚姻・相続・謄本取得など)や、不動産取引で要求されますが、日常生活ではほとんど使う機会がありません。
このため、ご自分の本籍を忘れている方も珍しくないほどです。

現代人の感覚で言えば、諱が本籍に相当し、通称が住所(住居表示)に相当すると考えれば、イメージしやすいのではないかと思います。
正式な文書や儀式で使う
日常生活で使うのが通称だとしたら、諱はどういう場面で使うのでしょうか?
それは正式な文書や儀式などです。後世に残りやすい公文書などは諱が使われます。
ですから、文書上は諱の「信長様」なのに、普段は通称の「三郎様」や、官職の「弾正忠様・上総介様」だったりするわけです。
家臣はもちろんのこと、正室の濃姫すら「信長様」とは呼びません。

自家の中で、誰かを諱で呼ぶことがあるとすれば、それは主君や父親に限られました。
主君と父親に限り、諱で呼んだり、通称で呼んだりすることがあり得たのです。それ以外は、ほぼ通称・官職・法号でした。
なお、自家以外の人で、誰かを諱で呼ぶ可能性があるとしたら、それは天皇陛下や将軍など、ごく限られた立場の人です。
家臣同士では、たとえ上司・部下の関係だったとしても、諱で呼ぶことは無礼とされました。
ですから、柴田勝家や丹羽長秀が、下積み時代の羽柴秀吉を呼ぶ時も、「秀吉殿」とは言いません。「藤吉郎殿・羽柴殿・筑前殿」などになります。
あだ名も通称を使う
あだ名にも通称が使用されます。
たとえば、「木綿藤吉」とは言いますが、木綿秀吉とは言いません。
同じく、「槍の又左」とは言いますが、槍の利家(前田利家)とは言いませんし、「米五郎左」とは言いますが、米長秀(丹羽長秀)とは言いません。
もし諱で呼んだとすれば、それは郵便物に本籍を書いて、配達してもらおうとするのと同じくらい、奇妙なことになります。
あるいは、親しい友人を毎回フルネームで呼ぶような違和感、と言えるかもしれません。
どのような場面で、主に誰が使うのか
幼名・諱・通称・官職・法号が、それぞれどのような場面で、主に誰が使うのかを整理してみましょう。

幼名
分かりやすいのは「幼名」です。これは元服の前に、主に家族内で使用する愛称でした。
成人するまでの仮の名前という性格が強く、親の価値観や願いなどを込めて、わりと自由に付けられることが多かったようです。
現代の感覚で言えば、実はこれが最も、私たちのイメージする「名前」に近いかもしれません。
私たちにとって、名前は親が付けるものであり、そこには親の願いが込められていて、かつ命名上の制約はほぼないからです。
法号
次に理解しやすいのは「法号」です。これは生前に出家した場合に用いる呼び名でした。死後に与えられるのは戒名であり、法号とはまた異なります。
法号を名乗る場合、立場上は僧侶ということになりますので、ややこしい使い分けがありません。
呼び方を間違えて礼を失することが少なく、私たちの感覚としても分かりやすいでしょう。
僧侶でありながら、武士でもあり続けるという状態が、今ひとつ想像しにくいですが、当時は珍しくありませんでした。

通称
問題は元服した後、そして出家していない場合の呼び方です。この期間は「諱・官職・通称」を使い分けなければなりません。
もっとも頻繁に使用されたのは「通称」です。
家臣同士は通称で呼び合いましたし、主君が家臣を呼ぶ時も、通称が多かったと言われます。
おそらく家族同士でも通称で呼び合っていました。
なぜ家族なのに「おそらく」なのかと思われるかもしれませんが、当時の家庭の状況は記録に残りにくく、はっきりとは分からないのです。
官職
通称に比べて、やや硬くなる言い方が「官職」です。
これは現代で言うところの役職名だと考えると、イメージしやすいと思います。たとえば、「〇〇社長・〇〇部長」という感じです。
公的な場や外交では、この官職名が使われました。
自家の上役や他家の要人に対しては、「これを使っておけば無難」という呼び方です。
ですから、家臣同士で呼び合う時は、同僚・後輩・親しい間柄であれば通称を使用し、同格・上役であれば官職名を使用すれば、礼を欠くことはありませんでした。

諱
そして、官職がさらに硬くなって、正式な文書に記録する時や、儀式などには「諱」を使いました。
こう考えると、諱というのは「文語」に近い感覚だったのかもしれません。
口語としては、普段は通称を用いて、やや硬くなると官職で呼ぶ、というイメージでしょうか。
結果として、正式名称である諱が最も使用頻度が低いという、現代人からすれば不思議なことになりました。
諱には、父親の字を一字受け継ぐとか、主君の字を一字拝領するなど、独特のルールが存在しました。このあたりも儀礼的と言えます。
三国志の場合
こうした名前の使い分けは、日本だけのものではありません。
たとえば、中国の三国志では、名と字(あざな)を使い分けますが、「名」が日本でいう諱に、「字」が通称にそれぞれ近いイメージです。
したがって、関羽雲長という呼び方は一般的ではありません。文書上は関羽と表記されることが多く、日常的には関雲長、または単に雲長と呼ばれました。
古代中国においては、名は親や君主などの上位者が呼ぶものであり、字は成人後に社会で使う呼称とされました。
目下の者が目上の人物を名で呼ぶことは、非常に無礼なことだったと言われます。
【関連記事】 ネーミングが天才的な織田信長
【関連記事】 敵を英雄にしたがる徳川 (1)
【関連記事】 敵を英雄にしたがる徳川 (2)
【関連記事】 敵を英雄にしたがる徳川 (3)
【関連記事】 柴田勝家は猪武者なのか?
【関連記事】 本当は強い斎藤義龍
【関連記事】 本当は怖い朝倉義景



コメント