美濃攻略は前半のヤマ
家康視点の歪み、秀吉視点の歪みと見てきましたので、その流れで信長視点の歪みについても触れておきましょう。
織田信長の前半生は、なんと言っても桶狭間が主役ですが、もう一つ「美濃攻略」は双璧をなす困難だったと言えます。
1551年(17歳)に家督を相続して、尾張統一がほぼ完了したのは、1559年(25歳)頃とされています。
1560年(26歳)に桶狭間の戦いがあり、1567年(33歳)に稲葉山城を落として、美濃を攻略しました。

翌1568年(34歳)に足利義昭を奉じて上洛を果たしています。
その後は勢力を急拡大して、織田政権を確立しますが、1582年(48歳)に本能寺の変で横死しました。
家督相続から美濃攻略までが約16年、その時点では2カ国の領有です。美濃攻略は、まさしく前半のヤマでした。
そこから本能寺の変までは約15年であり、領国は20~22カ国まで急増しています。
桶狭間の戦いは、確かにドラマチックでしたが、元寇と同じように防衛戦なので、織田家の勢力規模は変わりません。命脈は維持したものの、むしろ消耗しています。
それに対して、美濃攻略からは一気に、視界が拓けたように飛躍していきました。

今川家は再評価された
今川義元は過去、公家かぶれの愚将と描かれていましたが、これは信長に劇的な敗北を喫したからです。
しかし、その後は再評価が進んで、今では「海道一の弓取り」という異名の通り、東海の最強組織を率いた名君と認識されています。
そもそも、今川義元は上洛を目指したのではありません。
西進は視野にあったかもしれませんが、尾張に侵攻した1560年時点では、熱田や津島などの商業・港湾拠点を狙っていたとされます。
これらの商業・港湾拠点は、織田家の重要な収入源であり、かつ信長の商業センスを鍛えた存在です。義元はその価値を十分、理解していたのでしょう。
近年は、まるで無能扱いだった嫡子・今川氏真を再評価する動きもあります。
桶狭間の戦いの当時、氏真は22歳前後でした。
突如、大黒柱だった義元が消えて、混乱した大組織を経営する重責を負います。有能な軍師である太原雪斎も、その前に亡くなっていました。
これは今で言えば、東海地方の最大企業が、社長と専務を相次いで失って、経験の浅い若者が急に、半ば恐慌状態の組織を継ぐようなものです。
その上、松平家は離反して独立し、武田家は婚姻同盟を破棄して侵攻してきます。どれだけ利発な若者でも、困難を極めたことでしょう。
道三は過大評価されている
今川家の再評価は進みましたが、一方で斎藤家の歪みは放置されているようです。
具体的には、斎藤道三は過大評価されており、斎藤義龍(道三の子)は過小評価されていますが、歴史ドラマなどの都合上、これらを修正するのは難しそうな気がします。
斎藤道三は、油売りから成り上がった戦国の梟雄とされますが、実際は親子2~3代の功績が、道三ひとりに集約されています。道三自身は、おそらく油を売っていません。
そして、道三は「若き信長を認めた慧眼の持ち主」と描かれますが、単に信長が出世しただけです。

信長の長槍隊や鉄砲隊を、隠れた場所からのぞき見して、「この若者は見どころがある。俺の息子(義龍)は、婿殿の門前に馬をつなぐだろう」と言ったとされますが、これもドラマ性を高めるための創作です。
織田家と斎藤家は、織田信秀(信長の父)の代から争っていました。
お互いに疲弊したため、抗争をやめることにしたのですが、その時に道三の娘・濃姫(または帰蝶)と、信長の婚姻が決まりました。
道三が過大評価される理由は、娘が信長の妻になったからです。
また、婚姻に付随するものとして、「美濃は婿殿に譲る」と言ったエピソードが有名ですが、史料の裏付けは弱いとされています。
しかし、濃姫や美濃譲り状のお陰で、道三は評価の勝ち組(信長側)に属することができました。

義龍・龍興は過小評価されている
その反作用として、道三を討って美濃を支配した義龍は、「悪人・凡庸」という位置づけになりました。
信長による美濃攻略は、その後の飛躍につながる重要プロセスですから、敗れる側(義龍・龍興)は過小評価されることになります。
結果として、斎藤家の親子3代は、次のような歪み圧力を受けました。
・道三 善人・有能
・義龍 悪人・凡庸
・龍興 無能
しかし、実際の義龍は、信長の前半生における、最強の敵の一人でした。
義龍が家督を継いだ1556年以降、信長はなんども美濃侵攻に失敗して、撃退されています。
彼が病死するまでの5年間、信長はほとんど美濃に食い込めませんでした。
一般には道三が有能で、道三の死後に斎藤家は弱体化したと思われがちですが、義龍の時代の方がむしろ強かったのです。
斎藤家が凋落し始めるのは、義龍が亡くなった後です。

強力な美濃の壁
義龍は1556年の長良川の戦いで、父・道三との内戦に勝利します。
これは当然ですが、義龍一人の力では成し遂げられません。多くの味方がいたということです。
興味深いのは、道三の側近や重臣たちが、大量に義龍側へ寝返っている点です。
もし義龍が無能だったり、暴君だったりしたら、ここまで人心を集めることはできません。
美濃の有力国人の多くが支持して、内乱を制圧したわけですから、義龍にはそれに相応しい将器があったのでしょう。
美濃を手にした後も、領国経営や家臣団が乱れることはなく、織田家の侵攻をことごとく封じています。

ほとんどの勝者がそうであるように、織田信長もまた強運の持ち主です。
1560年、桶狭間の戦いでも運に恵まれましたが、しかしそれは自ら手繰り寄せた面が多分にありました。信長だからこそ、掴めた運だったと言えます。
しかし、1561年に義龍が34歳の若さで病死したことは、信長にとってはまさに幸運でした。
1560~1561年の1年そこそこで、信長の前途は急に拓けたのですから、振り返れば大きな転換点になりました。
義龍があと10年長生きして、美濃の壁として立ちはだかったら、戦国史は随分と違う展開を見せたかもしれません。
龍興は悲劇の若武者
斎藤龍興(義龍の子)は、単に無能と片づけられることが多いですが、実際は同情したくなってしまう若武者です。
義龍の急死によって、龍興が家督を継いだ時、彼はまだ12~14歳に過ぎませんでした(生年に諸説あり)。
龍興はしばしば、「酒色に溺れた暗君」「遊興に耽っていた」などと描かれますが、今で言えば小学校6年から中学校2年あたりですから、酒色や遊興はさすがに早いでしょう。

信長の美濃攻略において、大きな足掛かりになったのは、西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の離反でしたが、これは龍興が10代半ばの頃の事件でした。
成人した有力大名でも、統制が難しい癖のある家臣団を、10代の少年が指導するというのは酷な話です。
それでも龍興は、家督を継いだ1561年から、稲葉山城が陥落する1567年まで約6年間、必死に抵抗を続けました。
落城した後は亡命して逃れ、三好三人衆や朝倉家らと組んで、反信長の活動を行います。
最期は朝倉家の客将として織田軍と戦い、1573年の刀根坂の戦いで戦死したとされます。若干24~26歳です。幼くして家督を継いでから、信長に抗い続けた短い一生でした。
一説には、斎藤家を離反した氏家卜全の息子、つまり元家臣筋に討たれたと言われます。龍興は悲劇の若武者でした。
竹中半兵衛の美談は本当か?
龍興が関係する有名な逸話として、竹中半兵衛による稲葉山城の乗っ取り事件があります。
これは遊興に耽って、政治に関心を示さない龍興を諫めるために、竹中半兵衛がお灸を据えたというストーリーになっています。
わずか17名で稲葉山城を制圧して、龍興が改心したから城を返したという美談にされていますが、これはかなり疑わしい面があります。

歴史家によっては、これを半兵衛による、義龍・龍興派に対するクーデターと見る人がいるようです。
当初は不意を突いて、内通者の協力を得て乗っ取ったけれど、その後は期待したほど支持が集まらず、城を守り続けることができないので、手打ちして開城したのではないかと言います。
城を乗っ取った後、安藤守就(義父)の兵を引き入れて半年ほど占拠しますが、その先が続かなかったのでしょう。
これには確証がなく、推測の域は出ませんが、合理性は十分あると思います。
龍興は前述の通り、酒色に耽っていたわけではありませんから、危険を冒して「諫める」理由がありません。
主家の居城を乗っ取るなど、成功しても失敗しても、首が飛ばない方が珍しいですから。
一方、龍興は若年ゆえに指導力は弱いので、美濃の情勢が不安定だったことは確かです。内乱を起こす動機はあるのです。
実際、半兵衛に呼応した安藤守就は、その後に有力者の中では最初に離反した将の一人でした。
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