敵を英雄にしたがる徳川 (1) 武田家を持ち上げる

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歴史は勝者が描く物語

 歴史は勝者が都合よく書くものです。

 historyという言葉の通り、勝者の(his)物語(story)であって、事実ではありません。

 なお、ギリシャ語のhistoria(調査・記録)に由来するとも言われます。

 歴史には多かれ少なかれ、必ず修正や歪みがあり、人物・事件・事象などが過大評価、または過小評価されていることは普通にあります。

 過小評価ならまだマシな方で、歴史から消されたり、酷く歪曲されることも珍しくないことは、特に良識ある日本人であれば、痛感していることでしょう。

 新しい史観ほどその傾向が強く、特に大東亜戦争後の世界は「現役」ですので、迂闊に触れようとすると不当な攻撃を受けたりします。

 現役の場合は、歴史というより、政治の要素が強くなるからです。

 覇権や王朝が交替して、「過去」になった時に初めて、事実に寄せていく揺り戻しや、再評価が許容されやすくなります。

 政治の要素が薄まる一方、エンタメの要素が強くなるのですから、改めて考えると不思議なものです。

 既に過去となった戦国時代や明治維新は、多くの先生方による再評価が進んでおり、歴史ファンの皆様は、新しい視点を楽しんでおられることでしょう。

 今回はその中の一つ、徳川史観の歪みについて触れてみたいと思います。

浅井長政は過大評価されている

 徳川史観で過大評価されている人物の一人は、近江の大名である浅井長政です。

 29歳で散った若武者、悲劇の名将として人気が高く、能力的にも優れた武将だったとされています。

 後に「従二位」という高い官位を贈られていますが、これは相当な高位であり、たとえば将軍家一門・摂関家・大藩の藩主などが到達するクラスです。

 しかし、彼は実際に何をしたのでしょうか?

・大規模な戦闘で勝利していない。
・織田家と対立して、浅井家を滅亡させた。戦略的には失敗した。
・領国経営の実績にも目ぼしいものはない。

 父の代から近江の大名でしたが、家督を継いでから約13年で滅亡しており、特筆する要素はないと言えます。

 信長包囲網の一角として、織田家を苦しめたのは確かながら、包囲網の主役は本願寺や武田家であって、浅井家ではありません。

 唯一、金ヶ崎で信長を追い詰めたのがハイライトですが、結局は失敗して討ち損じています。

 ここぞという時に裏切って、不意打ちしたにも関わらず。

 同じくここ一番で裏切って、成功した小早川秀秋の方は、随分と酷い言われようなのですから、この差は一体何なのでしょう。

お江が評価されただけ

 浅井長政が最も評価された理由は、三女のお江(崇源院)が徳川秀忠の妻になり、徳川家光を生んだことでしょう。

 将軍の妻(または母)の血筋に当たるため、持ち上げなければならなかったのです。

 また、お江の母親であるお市の方は、信長の妹です。

 徳川家としては、信長や秀吉を必要以上に貶めることができません。

 彼らにもそれなりの正当性があったが、結局は徳川の天下になったことが正しい、という流れにしておく必要があるからです。

 こうした事情が最初にあった上、そこから後世の軍記物などで、長政に次のようなストーリーが添加されていきます。

・若くして散った悲劇の名将。
・当代の美女、お市との恋愛物語。
・義兄である信長と、盟友の朝倉との間で葛藤した義理堅い青年。

ふわっとしたイケメン

 近年は、浅井家と朝倉家が強固な同盟関係にあったという従来の常識に、異論を唱える歴史家もいます。

 彼らの研究によれば、むしろ浅井・朝倉は領地を争って、小競り合いしていた形跡があると言います。

 史実の長政は、義兄と盟友のどちらを取るかで揺れたのではなく、単に浅井家の生存戦略を計って失敗しただけなのかもしれません。

 しかし、「ここ一番で裏切って、しかも失敗して、結局はお家を潰した。他に大した功績もない」では、いかにも恰好がつきません。

 事実がなければイメージ戦略ということで、妻と娘の色気に助けてもらいつつ、悲劇の名将という体裁を整えて、ふわっと人気が出てしまったのです。

 その過程で、顔までイケメンになりました。

 一方、長政と組んで似たようなことをしたはずの朝倉義景は、無能な大名として描かれています。顔は普通です。

明治が認めた「忠義」

 浅井長政の幸運(?)は更に続きます。

 先ほど、浅井長政は後年になって、従二位という高位を贈られたと書きましたが、これは1882年(明治15年)のことです。

 つまり、徳川幕府ではなく、明治政府が行っているのです。

 明治政府にとって徳川家は旧敵であり、徳川秀忠の妻・徳川家光の母という血筋は、評価する対象になりません。

 それなのになぜ、高位を与えられたのでしょうか。

 明治政府は、1870~1890年代を中心に、過去の人物に対して、多数の追贈(位階授与)を行っています。

 それは単なる顕彰ではなく、次の意図がありました。

・新しい国家の歴史観を作る。
・忠君愛国の模範を示す。
・皇室中心の歴史観を普及させる。

 このため、「朝廷への忠義」を評価される人物が多く選ばれました。

 楠木正成・新田義貞・北畠顕家など、南北朝時代に天皇への忠誠を貫いた人物が、とりわけ高く評価されています。

 逆に足利尊氏など、天皇と対立した武将は辛辣な評価を受けています。

 浅井長政は、この流れに見事に乗ってしまったのです。

 江戸時代に培われた「義を守った悲劇の将」というイメージが、明治国家が求める英雄像と合致したからです。

 信長の圧力に屈することなく、朝倉家との同盟を守った「忠義」が評価されたのでしょう。

 評価ガチャで2回当てているわけですから、その意味では確かに名将です。

徳川史観の好み

 徳川史観によって、最も過大評価された存在の一つは武田家です。とりわけ、武田信玄は英雄化されました。

 なぜ武田家は、徳川史観に好まれたのでしょうか。

 それは武田家が、家康の成長ストーリーを映す鏡として、極めて優れていたからです。

 最初は武田信玄が、圧倒的な壁として立ちはだかりました。

 特に三方ヶ原の戦いはその象徴であり、信玄に手玉に取られた家康は大敗を喫して、逃げ帰る途中に恐怖で脱糞したと言われます。

 その時のみじめな、渋い表情を、わざわざ絵師を呼んで描かせて、後々まで戒めにしたというのは有名な逸話です。

 それがやがては肩を並べ、信玄の没後とはいえ、遂には追い越して武田家を倒したという流れが、隣国にある「家康を映す鏡」として非常に便利なのです。

 恐るべき敵にして、偉大な師。だが、それを乗り越えた家康は、さらに偉大である。まさに神君に相応しい。こういうRPGの物語です。

武田は徳川の一部である

 武田家を持ち上げる理由は、それだけではありません。

 武田家の遺臣は、多くがその後に徳川家に吸収されて、徳川の中核戦力になっていきます。

 織田・徳川連合は武田家を滅亡させましたが、一方で徳川家は、武田家の軍事力の相当部分を吸収しています。

 彼らはその後、徳川家の屋台骨を支える一柱になっていますから、「かつての偉大な敵であり、その後の心強い味方」という立ち位置です。

 これを悪しざまに描く道理はありません。

 1582年に甲州征伐が始まりましたが、徳川家はそれに先立って、武田家の家臣を調略して味方に付けています。

 その最たる例が西駿河・南甲斐を治めていた穴山梅雪です。

 梅雪は武田一門衆の筆頭格でした。宗家武田の分家である上、妻が信玄の実娘という強固なつながりがありました。母が信玄の実姉という説もあります。

 その領地は要所も要所で、徳川家との前線にありますから、梅雪が離反したことは、武田家の内部分裂を象徴すると同時に、前線が丸々ひっくり返ったことになります。

 この時に多数の人間が徳川家に取り込まれました。

 武田家の要人と、徳川家のつながりができたことを受けて、甲州征伐の完了後も遺臣の吸収は続いていきます。

 この登用は大規模なもので、徳川家の軍事を大きく変えました。

 武田の赤備えは、四天王の井伊直政が継承して、「井伊の赤備え」として再編しています。

 また、江戸時代の兵学は、「甲州流軍学」の影響が強く見られます。

 武田家の戦術・陣形・用兵は、徳川幕府の軍事思想の一部となったのです。

 つづく。

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