西郷隆盛と言えば、日本が誇る英雄であり、その名を知らない人はいないでしょう。
その人気は全国的であり、出身の薩摩(鹿児島県)に限りません。幕末・明治に活躍した要人の中でも、とりわけ支持の厚い人物の一人です。
西郷翁・南洲翁などと呼ばれますが、享年は意外なことに51歳です。
若死にした志士ほどではありませんが、「翁」という字からイメージするほど、現代の感覚では高齢でもありません。

薩摩の傑物・西郷どんには、歴史的に重要なエピソード以外にも、彼の人柄がよく分かるこぼれ話が多く残されています。
実は「隆盛」じゃない?
西郷隆盛の名前は、実は「隆盛」ではありません。
隆盛は父親の諱(いみな/正式な実名)であり、本人の諱は「隆永」でした。
なぜ隆盛になったかというと、明治政府が戸籍・履歴を整理する過程で手違いが生じ、それがそのまま定着したからです。
当時の人々は、通称でお互いを呼び合いました。西郷どんの通称は「吉之助(きちのすけ)」です。
周囲の人は皆、西郷どんを吉之助と呼んでおり、諱を正確に覚えていなかったため、いざ戸籍に登録しようという時に、資料を誤認してしまったのです。
西郷家の関係者も、「それでよか」と言って、特に修正を求めませんでした。
日本屈指の英雄が約150年間、誤った名で知られているというのは、なかなかクレイジーな話でしょう。

江戸時代の武士は、幼名・通称・諱・号などを使い分けるのが普通であり、同じ人物が複数の名前を持つことは珍しくありませんでした。
名前が原則として一つに統一されたのは、明治政府による努力のお陰です。
西郷どんも、幼名は「小吉」、通称は「吉之助」、諱は「隆永」、号は「南洲」であり、複数の名前を持っていました。
ちなみに、坂本龍馬の「龍馬」は通称であり、諱は直陰です。
勝海舟の「海舟」は号であり、諱は義邦です。現代の私たちには、分かりにくくて混乱してしまいます。
上野の「西郷どん」像は別人
東京の上野公園にある西郷隆盛の銅像は、多くの観光客に親しまれていますが、実は西郷どん本人ではありません。
1898年の除幕式で、像を見た妻の糸子が、「うちの人は、こんなお人ではなかった」という趣旨の発言をしたそうです。

これはなぜかと言うと、西郷どん本人が写真を嫌い、生涯に一度も肖像を撮らせなかったからです。
つまり、本当の顔は当時の関係者以外、誰も知らないのです。
当時は「写真を撮ると魂を吸われる」という迷信がありました。
だからこそ、坂本龍馬が好んで写真撮影に臨んだことは、彼の先進性を示す逸話として有名なのですが、撮影を嫌った武士は多くいました。
ただ、西郷どんに関しては、魂を吸われるのが怖いというより、西洋の技術を手放しに有り難がるのが嫌だったのかもしれません。彼は日本を愛していましたから。
ともあれ、西郷どん本人の肖像がないため、弟の西郷従道(つぐみち)や従弟の大山巌(いわお)の顔立ちを参考にして、どうにか再現することになります。
イタリア人画家のエドアルド・キヨッソーネが、彼ら二人を元に描いた肖像画が基礎となり、その肖像画から、彫刻家の高村光雲らが像を作りました。
最重要人物の一人なのに、名前にしろ容姿にしろ、実際と違っているというのは、非常に珍しい例だと言えます。

日本初のダイエット?
日本で初めて爆死したのは、松永久秀。日本で初めて新婚旅行したのは、坂本龍馬。
それでは、日本で初めてダイエットしたのは誰でしょうか?
そう、西郷隆盛です。
明治天皇の侍医(ドイツ人)から、「太りすぎで命の危険がある」と診断されて、ダイエットのために兎狩りと散歩を勧められたのです。
身長は178前後、体重は100kg前後でしたから、当時としてはかなりの巨漢になるでしょう。
西郷どんは大の愛犬家であり、薩摩では十数頭の犬を飼っていたと言われます。
狩猟へ行く時も、犬を連れて歩きました。西郷どんが愛した犬は、ダイエットのお供でもありました。

西郷どんにとって、犬は大事な存在だったらしく、単に「犬」ではなくて、一頭ごとに名前を付けて、それぞれの性格まで把握していました。
現在でも、多頭飼いで全員の個性を把握するのは、簡単なことではありません。西郷どんは、それを自然に行っていたのです。
西南戦争の最中ですら、犬を連れていたという証言があります。
しかし、敗北が決定的になると、犬たちの首輪を外して放しました。その後、一部の犬は生き延びて保護されたことが、当時の新聞で報じられています。
ちなみに、上野公園の銅像は、西郷どんが犬を連れていますが、この犬も実際とは違うと言われます。
西郷どんの愛犬は、銅像の制作時に亡くなっていたため、薩摩犬のサワをモデルとして作られました。
西郷どんも、連れている犬も、西郷隆盛というネームプレートも、それぞれ「微妙に違う」というのが、じわじわくるポイントです。

タマが赤ちゃんの頭みたいに…?
西郷どんは晩年、リンパ系フィラリア症と考えられる病気にかかり、陰嚢水腫(いんのうすいしゅ)を発症していたとされます。
陰嚢が赤ちゃんの頭ほどの大きさに腫れ上がってしまい、馬に乗ることができず、駕籠(かご)で移動する日々を送っていたと言われます。
原因は細長い寄生虫(バンクロフト糸状虫)です。
この寄生虫に感染した蚊が人を刺すと、その幼虫が体内に入ってリンパ管に寄生します。
何年もかけてリンパ管が徐々に詰まっていき、むくみ・陰嚢水腫・象皮病などを起こすことになります。
現在でこそ薬剤で治療できますが、当時は原因すら分かっていませんでした。
西郷どんは、「歩き方がゆっくりだった、足を広げるように歩いた」という証言が残っています。これは陰嚢水腫による影響だと思われます。
西南戦争の最中も、馬に乗るより徒歩を選ぶ場面がありますので、馬にまたがると痛みが強かったのかもしれません。

当時の九州南部や沖縄は、蚊が非常に多く、温暖な気候であるという条件から、リンパ系フィラリア症は現在より遥かに多かったとされます。
特に、西郷どんが島流しになった奄美大島や、沖永良部島は流行地であり、これらの島で過ごした時期に感染した可能性が高いでしょう。
なお、現在では、日本国内でこの病気が自然感染することはほぼなく、公衆衛生対策によって根絶されています。
黒いダイヤのような目
西郷どんは、子供の頃からとにかく身体が大きくて、腕っぷしも強かったと言います。
仲間思いであり、周りの友達からは慕われていましたが、ある時に別の村の少年グループと喧嘩をして、相手をこてんぱんに倒してしまいます。
後日になって、その時の相手が、復讐のために後ろから斬りつけてきたため、西郷どんは右腕を大ケガします。
深い傷を負ってしまい、自由に刀を振れなくなってしまいました。
「強い薩摩武士になりたい」という夢を抱いていた西郷少年にとって、これは相当ショックな出来事だったことでしょう。

武の道は断たれましたが、西郷どんは身長178cm前後、100kg前後という巨漢に成長します。
当時の男性の平均身長は、155cm程度ですから、現代で言えば、2m近い人を見るような感覚だったことでしょう。
外国人もその体格の良さに驚いたと言われます。
英外交官のアーネスト・サトウは、西郷どんを「黒いダイヤのように光る大きな目玉」の持ち主と記録しました。
四角い顔に、ダイヤのような大きくて黒い目がある、巨漢の武士というのが、当時の西郷どんの容姿だったようです。
つづく。
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