西郷どんには多くの名言がありますが、その代表の一つは「敬天愛人/けいてんあいじん」です。
「天を敬い、人を愛する」という彼の座右の銘は、どのように形成されたのでしょうか。
そこにはおそらく、2回の自〇未遂、2回の流罪(島流し)という過酷な前半生が影響しています。

命より忠義と友人を選ぶ
西郷どんは2回、自〇未遂をしています。1回目は1858年11月、僧・月照との入水事件です。
1858年8月、人生最大の恩人である島津斉彬が亡くなりました。この時点で、西郷どんは「生きる意味を失った」と酷く落胆します。
その後、大老・井伊直弼が「安政の大獄」を始めたため、それによって命の危険が及んだ僧・月照を匿うことになりました。
なぜかと言いますと、月照は僧侶でありながら、志士のような政治活動を行っていたからです。
月照は幕末の政治情勢を深く憂い、薩摩藩と協力して、朝廷と幕府の対立を調整しようと尽力していました。彼は京都に強い人脈を持っていたのです。
島津斉彬は、月照の協力を得て公武合体を推進しました。
その際、側近の西郷どんが実働部隊として動きます。結果として、西郷どんと月照は同志・友人のような関係になりました。

しかし、安政の大獄によって、月照は幕府の捕縛対象となり、「捕まれば処刑は免れない」という状況に陥ります。
幕府視点で見た場合、月照は政界工作をしている宗教指導者、幕府にとっての危険人物と見えたのでしょう。
その頃は既に、西郷どんにとって、月照は政治的な協力者から、見捨てられない友人になっていました。
また、月照を守ることが、彼と親交があった藩主・斉彬に対する忠義である、という考えもあったようです。
西郷どんと月照は、なんとか京都から薩摩藩へ落ち延びますが、そこで待っていたのは絶望でした。
斉彬の亡き後、新しい薩摩の首脳部は、幕府と対立することを怖れて、月照を受け入れなかったのです。
西郷どんは、大恩ある斉彬を失った、親友を助けられない、もはや薩摩藩が信じられない、という幾重もの絶望を感じます。

追い詰められた西郷どんと月照は、入水自〇を図ることになりました。
生きる希望だった斉彬を失った西郷どんにとって、これはある種の「殉死」だったとも言えます。
一緒に生きられないなら、一緒に〇ぬ
後年、西郷どんは敵・味方を問わず、人情を重んじる人物として知られるようになります。その原点とも言えるのが、この入水事件でした。
月照だけを逃がす方法や、自分だけ生き延びる方法なら、本当はあったかもしれません。
しかし、西郷どんは「一緒に生きられないなら、一緒に〇ぬ」という選択をしました。
現代人から見ると極端ですが、彼らしさがよく表れた出来事と言えます。
西郷どんは、一度信頼した相手には深い情を注ぎ、その人が困難に陥れば、自分の立場や損得を後回しにしてでも、これを支えようとする傾向がありました。
信頼して、守ると決めた人を見捨てることが、彼にはできなかったのでしょう。
奄美大島で家族を持つ
入水によって月照は亡くなりましたが、西郷どんは生き延びます。彼はこの偶然を「天に生かされた」と考えました。
その後、西郷どんは奄美大島に流罪(島流し)になります。
これは表向き、藩に無断で勝手なことをしたからですが、その実は幕府の追求を避けるために、西郷どんを守るという面がありました。

したがって、奄美大島での暮らしは、一部の制約はあるものの、比較的自由なものでした。
西郷どんは、農業を手伝う・島民と交流する・子供たちを教育する・書を読むなどして、島民と交流を深めながら過ごします。
愛加那(あいかな)という女性と結婚して、二人の子供(菊次郎・菊草/きくそう)も生まれました。
ここで島民らと同じ目線で暮らしたことが、後年の民衆を重んじる政治につながったと言われています。
しかし、1862年に島津久光が藩政の実権を握ると、久光の命によって、西郷どんは薩摩に呼び戻されることになります。
安政の大獄から3年ほど経ち、ほとぼりが冷めたところで、有能な西郷どんの力を求めたのでした。
なお、長男の菊次郎は9歳の頃、薩摩の西郷本家に引き取られます。
17歳の頃、西南戦争に従軍して右脚を失いましたが、その後は外交官・台湾総督府官僚・京都市長などを務め、優秀な行政官として活躍しました。
長女の菊草は、大山巌の弟と結婚しています。
愛加那とは、手紙のやり取りや経済支援は続けましたが、再び一緒に暮らすことはなく、再会できたのも数えるほどでした。

2回目の流罪で沖永良部島へ
せっかく藩政に復帰した西郷どんでしたが、彼の権力に媚びない率直な物言いは、島津久光の不興を買ってしまいます。
斉彬は彼の特徴を愛して、上手く活用しましたが、久光はこれを次第に嫌悪するようになります。
「西郷は薩国第一の宝である。しかし、彼は独立の気性があるから、これを使いこなせる者は私の他にはいない(島津斉彬)」
斉彬の言葉の通りになってしまいました。
久光から見た場合、西郷どんは素直に命令に従わなかったり、藩主である自分に異論を唱えたりします。
当時の武家社会では、主君に反論することは異例でした。それこそ切腹覚悟、命がけで「諫める」という場面があるほどです。
一方、指導者として力量は確かであり、かつ人望が厚くて、彼を支持する藩士が多数いるのですから、久光としては面白くありません。
面白くないどころか、久光はおそらく恐れを感じていたでしょう。
西郷には絶大な人気がある。しかし、独立の気性が強く、自分の統制に従わない。西郷を放置すれば、多くの家臣が意のままに動かなくなる。
権力者である久光は、権力に媚びない西郷が、多数の家臣に慕われている状況を危惧したのです。
久光はおそらく、藩内の分裂を怖れたのでしょう。折りしも寺田屋事件によって、薩摩藩が大揺れした時期です。
統制を乱しかねない西郷どんに、不自然なほど重い罰を与えました。沖永良部島への流罪(島流し)です。
久光は西郷どんを〇したかったのではありません。政治の中心から遠ざけて、自分の権力が脅かされないようにしたかったのです。

約2年後の1864年、久光は西郷どんを呼び戻して恩赦しています。禁門の変などで政治情勢が混沌とした時、彼の能力に頼らざるを得なかったからです。
人間的に気に食わないし、その影響力は厄介だ。しかし、指導者としての能力は抜きん出ている。おそらく、こういう認識だったのでしょう。
またも生かされた
奄美大島への流罪が、西郷を守る側面があったのに対して、沖永良部島への流罪は「厳罰」でした。
沖永良部島は、薩摩から約550km南にある島です。当時は交通も非常に不便で、本土との往来はほぼ無理でした。流刑地としては、最果てだったと言えます。
ここで西郷どんは、わずか畳1枚程度の牢に閉じ込められます。
屋根に相当するものはありますが、壁に相当するものがありません。柱だけで吹きさらしの状態です。牢というより「檻」のイメージです。
横からは雨風が吹き込み、夏は暑くて冬は寒いという劣悪な環境でした。
食事も少量の粟・芋・魚ぐらいで、栄養状態はよくありませんでした。前述のリンパ系フィラリア症も、この時期に罹患したのではないかと言われます。
この頃、西郷どんは「二度と世に出ることはない」と考えていたようです。
流刑の期限は決まっておらず、終身刑に近い感覚でした。
西郷どんはこの状況に絶望して、1回目の入水事件に続く、2回目の自〇未遂を図ったと言われます。絶食して命を断とうとしたのです。
・恩人である島津斉彬の逝去
・政治的な迫害と将来への絶望感
・過酷な流刑生活
こういった要素が重なって、極めて強いストレス状態だったのでしょう。
しかし、彼の人格に感銘を受けた牢番・島民・監視役らが、待遇改善のために動いたことで、西郷どんは最低限の人間らしい生活を取り戻します。
周囲の好意によって命を長らえた西郷どんは、天と人々の情けによって「またも生かされた」と考えます。
現状に恨みごとを言うことなく、読書・思索・精神修養に励む日々を送りました。
西郷どんは、ここで「肉体的には最も苦しみ、精神的には最も成長した」と言われています。
論語や中国古典にも繰り返し目を通して、「人は天命に従うべきだ」という思いを強くしたと伝わります。

流罪で悟った「敬天愛人」
合計して約5年に及ぶ2回の流罪は、彼の人格形成に大きな影響を与えました。
若い頃は熱血漢でしたが、奄美大島で島民の生活を知り、沖永良部島で人生を見つめ直したことで、「包容力・忍耐・達観」など、私たちがイメージする、あの「西郷隆盛」になっていきます。
座右の銘である「敬天愛人」は、おそらくこの苦難の時期に確立したのでしょう。
興味深いことに、彼はこの2回にわたる流罪を、単なる不運とは考えていませんでした。
後年、「島で学んだことが自分を育てた」という趣旨の発言をしています。
もちろん持って生まれた性質もあるでしょうが、極限状態を生き抜いたり、幾つもの絶望を乗り越えた経験が、人間としての深みを与えたと考えられています。
長期不在でも人望が失われない
沖永良部島に流されてから約2年後、禁門の変によって薩摩藩は大きく揺れ動きます。
この難局を舵取りできる、有能な指導者が求められたことで、西郷どんは再び薩摩に呼び戻されることになりました。

その後、わずか3~4年の間に、長州征討・薩長同盟・王政復古の大号令・戊辰戦争などが立て続けに起きますが、西郷どんは薩摩の顔として、歴史の中心人物の一人になります。
5年もの流刑生活の直後に、激動の政界に投げ込まれて、大藩の薩摩をまとめ上げたというのが、何度考えても驚いてしまいます。
常人であれば、人間関係が希薄になったり、激変した情勢に追い付けなかったり、前線特有の感覚が鈍ったりしそうなものです。
しかし、西郷どんが復帰した時、周囲の人は「西郷はもう時代遅れだ」とは言っていません。
逆に、薩摩藩士の多くが「西郷どんが帰ってきた」と歓迎しました。
時を経ても人望が失われないことや、いきなり前線に放り込まれて適応できることは、西郷どんの不思議な力の一つです。
彼は長い流刑生活の間に、政治経験を失った一方、人間性を深めました。薩摩藩が擁する優秀な人材たちは、西郷どんの下では団結できたのです。
不平士族の思いを引き受ける
明治維新が成った後、西郷どんは参議・陸軍大将などの高位に就きましたが、豪邸・高価な衣服・金品などに、ほとんど興味を示さなかったと言います。
人として正しいことにこだわった彼にとって、新政府の現実は酷く落胆するものでした。
西郷どんは、こんな言葉を残しています。
「こういう堕落腐敗した政府を創るために、あの惨憺(さんたん)たる幕末があったのだろうか。倒れた無数の同志たちに顔向けができない」

不平士族の思いを引き受けて、その結末を十分予想しながら、体と命を預けて西南戦争に臨むことになります。
西南戦争の後、政府は西郷どんを逆賊としましたが、国民的な人気は衰えませんでした。
彼の生存を祈る思いは強く、各地で「西郷は生きている」という噂が流れます。「生きていて欲しい」という民衆の願望の表れでしょう。
1877年の西南戦争で朝敵になりましたが、12年後の1889年には、大日本帝国憲法発布に伴う恩赦で許されて、その名誉を回復しています。
この恩赦には、維新によって生じた内部対立を終わらせたいという、明治政府の思惑がありましたが、一方で西郷どんの功績と根強い人気が配慮されたのでしょう。
逆賊でありながら、最も国家のことを考えた、最も国民から愛される人物の一人なのですから、考えてみると不思議なものです。
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