薩長土肥の「肥」は何をした? (1) 反射炉 火力戦力

薩長土肥 (1) ブログ

 明治維新の勝ち組として「薩長土肥」という言葉が有名です。

 薩摩・長州・土佐は分かりますが、肥前(佐賀藩)が何をしたかは、意外に知られていないかもしれません。

 薩長土は、それぞれに派手なイベントや悲劇がある一方、肥はいつの間にかヌルッと出てきて、勝ち組に付いていたりします。

圧倒的な火力

 薩摩は西郷隆盛、長州は高杉晋作、土佐は坂本龍馬といった、幕末の英雄がすぐ浮かびますが、佐賀にはそうした存在がいません。

 維新後には有能な人物が多く名を連ねますが、幕末だと藩主である鍋島直正(または閑叟/かんそう)以外は、あまり浮かばないのではないでしょうか。

 佐賀藩は、特定の英雄的な人物というよりは、その「技術や先端兵器」によって、新政府の樹立に大きく貢献しました。

 当時、日本屈指の技術立国だったのです。

 一部の歴史家は「東洋一の技術大国だった」と評することもありますが、これは決して誇張ではなく、事実に近かったようです。

 旧幕府軍との戦いで、西洋式の兵器と戦闘スタイルを備えた佐賀軍は、敵味方の双方に圧倒的な強さを示しました。

 彰義隊が寛永寺に立てこもった上野戦争では、アームストロング砲を撃ち込んで、わずか一日でこれを勝利に導きます。

 会津戦争では、堅城だった会津若松城に砲撃を浴びせ続け、櫓・門・城壁などの施設に被害を与えて、守備兵に強い心理圧迫を加えました。

 会津若松城は約1カ月で陥落することになりますが、佐賀軍の強烈な火力がこれに貢献したのは間違いありません。

 また、函館戦争では、同じく砲撃による火力支援をしつつ、海上の軍艦から艦砲射撃を行って、戦況を有利に運んでいます。

 つまり、佐賀軍は「最大級の火力戦力」だったのです。

 これは新政府軍が、戊辰戦争における一連の戦いで、連勝できた大きな要因の一つでした。

 目ぼしい革命家がいなかったことや、勝ち組の見極めで参戦が遅れたことで、やや地味な存在に思われがちですが、いざ登場してからの活躍は華々しいものでした。

技術では薩摩の先輩格?

 西洋文明を積極的に取り入れた殿様と言えば、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)を連想する人が多いでしょう。

 確かに島津斉彬も筆頭格なのですが、彼はこんな言葉を残しています。

 「西洋人も人、佐賀人も人、薩摩人も人である。諦めることなく、研究に励みなさい」

 これは技術部門の部下たちを励まして、「同じ人間なのだから、西洋人や佐賀人にできて、我ら薩摩人にできないはずがない」と叱咤激励したものです。

 同じ技術重視と言っても、佐賀藩は軍事・工業に傾倒しており、とりわけ国産化(自分たちで作ること)に情熱を燃やしました。

 一方、薩摩藩は総合的な近代化を志向していますから、単純な比較はできないのですが、上記の言葉を素直に読めば、島津斉彬は佐賀藩を先輩格と見ていたようです。

 佐賀藩の石高は約36万石、薩摩藩の石高は約77万石です。この差を考えると、より偉大に思えてきます。

屈辱のフェートン号事件

 佐賀藩は、なぜ日本屈指の技術立国になったのでしょうか?

 そして鍋島直正は、なぜ特に軍事・工業を重視したのでしょうか?

 それは直正が生まれる少し前に生じた、佐賀藩にとっての屈辱的な事件に端を発しています。

 文化5年(1808年)に起きた「フェートン号事件」です。

 これはイギリス海軍の軍艦フェートン号が、オランダの偽旗を掲げて、長崎をだます形で入港した事件です。

 イギリス軍は、オランダ商館員を人質に取って、水・食糧・薪を要求します。

 長崎奉行の松平康英は、武力で対抗しようとしましたが、警備を担当していた佐賀藩が、無断で兵数を約1/10に減らしており、十分な兵力が集まりませんでした。

 太平の世が続いていたので、佐賀藩は警備コストが重いのを嫌って、これを勝手に削減していたのでした。

 その結果、300人超の乗組員と大砲を擁するフェートン号を制圧できず、「港内の船を焼き払うぞ」と脅迫されて、彼らの要求に屈することになります。

 松平康英は、国威を辱めたことを恥じて切腹。

 幕府は佐賀藩を厳しく叱責して、藩主である鍋島斉直(直正の父)に謹慎100日を命じました。

 また、佐賀藩の家老数人が、無断で警備兵を減らした咎で、責任を取って腹を切りました。

 この屈辱的な事件は、直正が生まれる6年前のことですが、直正は幼少期から繰り返し、この事件の教訓を教え込まれて育ちました。

 一方、この結果に味をしめたイギリス軍は、その後も相次いで日本に姿を現すようになり、徳川幕府は1825年に異国船打払令を発令します。

 天保11年(1840年)にアヘン戦争が起きたこともあり、徳川幕府はイギリスを、侵略性の強い危険な国と認識するようになりました。

汚名を返上する

 直正は、屈辱のフェートン号事件を繰り返し教え込まれた上、実際に長崎において外国の脅威を目の当たりにしています。

 清国が侵略されたアヘン戦争の情報も、距離的に近い佐賀藩にとっては、とりわけ脅威に映ったことでしょう。

 また、オランダの軍艦パレンバン号に乗船して、先進装備に触れた経験もありました。

 こうした事情が重なって、直正は強く軍事・工業に傾倒していきます。

 自らが技術者並みに詳しく、藩士にも積極的に学ぶことを促した結果、佐賀は日本有数の理系藩として、異彩を放つ存在になりました。

 やがて、フェートン号事件の汚名を返上する時が来ます。

 嘉永6年(1853年)、ロシア海軍のエフィム・プチャーチンが長崎に来航しますが、この時の佐賀藩はフェートン号事件の時とは別物です。

 直正の軍事改革によって、佐賀軍は西洋砲術に習熟した部隊になっており、長崎周辺にも砲台群を築いて防備を固めていました。

 その軍事力を見たプチャーチンは警戒したのか、高圧的な態度をとることはありませんでした。

 同じ年には、アメリカのマシュー・ペリーが浦賀に現れて、幕府は大混乱に陥っているわけですから、この差は対照的と言えるでしょう。

 時の老中である阿部正弘は、江戸の海防を強化するため、高い技術力を誇っていた佐賀藩を頼り、鉄製の西洋式大砲50門を発注しました。

 外国船の横暴に苦杯を舐めた佐賀藩は、わずか45年でここまで変わっていたのです。

 直正が藩主になったのは天保元年(1830年)ですが、その時点では満14歳でしかありません。

 いくら聡明とは言え、藩政の主導権を握るのは20代以降でしょうから、そう考えると15年前後で佐賀藩を一変させたことになります。

反射炉は武力に直結した

 直正の業績は多岐にわたりますが、その代表の一つは「反射炉(はんしゃろ)」の国産化です。

 反射炉とは、簡単に言えば「巨大な金属溶解装置」であり、純度の高い鉄を製造するために必要とされました。

 青銅の兵器は、威力・飛距離・命中精度とも劣るため、戦いに勝つには鉄製が望まれます。

 日本の職人は、不純物の多い鉄を加熱して、叩いて、折り返して、また加熱して、叩いて、という工程を繰り返し、職人技で不純物を減らしていました。

 日本刀や前装式の銃であれば、この職人技で製造できますが、幕末に活躍する先端兵器は、より純度の高い鉄を要求します。

 後装式の銃や、威力の高い大砲などを生産するには、職人技では不十分だったのです。

 鉄を均一に加熱して、かつ大量に鋳造するために、反射炉は必要不可欠でしたが、当時の日本にはその技術がありません。

 先端兵器はすべて、外国から高値で輸入するしかありませんでした。

 直正は、これをなんとかして国産化できないかと、情熱を燃やして挑戦し続けました。

 良質の鉄を製造できる反射炉は、武力に直結する軍事技術だったからです。

 そして、晴れて反射炉の開発に成功し、良質の鉄製兵器を量産できるようになった佐賀の軍は、最大級の火力を誇る精鋭部隊になりました。

開発は困難を極めた

 鉄製の大砲を作るには、鉄を1500℃近くまで加熱して液体化し、鋳型へ流し込む必要があります。

 しかし、鉄を火に直接触れさせると、灰が混ざったり、不純物が混ざったりして、品質が落ちてしまいます。

 そこで、火は別の空間で燃やして、熱だけ利用する方法が考えられました。

 高熱をドーム型の天井に反射させることで、純度を落とすことなく、均一に鉄を加熱することができます。

 幕末における反射炉は、現代で言えば、半導体工場や航空機工場のイメージに近いかもしれません。

 なぜなら、反射炉を作れるということは、高度な設計技術と金属加工技術を有し、かつ高度な組織運営ができることの証左だからです。

 当時は貴重だった蘭書を取得して、これを翻訳し、その情報から設計図を作成する。

 耐火煉瓦を製造して、鋳型を作成する。

 そして、鉄の純度を維持するために、各工程の品質管理を突き詰めていく。

 私は無知なので実感がありませんが、製造業に携わる方々であれば、こうした苦労をありありと想像できるかもしれません。

 反射炉の開発は困難を極めました。開発を担当した藩士らは、何度も頓挫して一時は諦めかけ、腹を切って詫びたいと申し出たほどでした。

 しかし、これをやり遂げた佐賀藩は、薩摩・長州・土佐ほどの血を流すことなく、薩長土肥の一角を占めたのですから、その苦労は報われたと言えるでしょう。

韮山反射炉

 日本の反射炉と言えば、幕臣である江川英龍が開発した「韮山反射炉にらやまはんしゃろが有名です。

 韮山反射炉は現物が残っており、ユネスコの世界遺産にも登録されていることから、知名度は抜群と言えます。

 一方、佐賀藩の反射炉は現物が残っていないため、どうしても知名度に劣るのですが、着手と実用化は佐賀藩が先行していた点を忘れてはなりません。

 佐賀藩の軍事技術は、維新回天における大きな原動力の一つになりました。

 そして、徳川幕府はドラマなどでは無能に描かれがちですが、極めて優秀な人材が豊富にいたこともまた、理解しておくべきでしょう。

 つづく。

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