身分より技術を
鍋島直正は反射炉のほかに、蒸気船の建造にも成功しています。
嘉永6年(1853年)にペリーやプチャーチンが来航しましたが、その2年後には蒸気船「凌風丸」を建造しているのですから、これは驚くべき早さと言えます。

ここにも直正の人柄や、佐賀藩の藩風を示す面白いエピソードがあります。
蒸気船の自作にあたって、佐賀藩は久留米藩のカラクリ職人だった田中久重(からくり儀右衛門)を招聘します。
田中は一介の町人に過ぎませんでしたが、佐賀藩は彼を技術者として重用しました。身分より技術に重きが置かれる環境だったのでしょう。
彼は佐賀藩の研究所「精煉方」で、蒸気船模型や蒸気機関の開発に貢献しました。
カラクリ職人として、歯車・ゼンマイ・精密加工などの技術を習得していたので、理論を実践に移す時の貴重な戦力になったのです。
武士のプライドに固執せず、町人の技術者と一緒に切磋琢磨した、佐賀藩士たちもまた立派だったと言えます。

田中が残した作品「弓曳童子」や「万年自鳴鐘」は、精巧な機械仕掛けとして、今も高く評価されています。
機械工学・精密加工・蒸気技術など、先端分野を横断した技術者として名を上げた田中は、徳川幕府や雄藩に相次いで招かれることになります。
明治期になると、彼は東京へ出て田中製造所を設立しました。これを源流として、現在の「東芝」につながっていきます。
佐賀なくして近代化は語れない
安政2年(1855年)、徳川幕府はオランダの協力を得て、長崎で海軍伝習を実施します。
幕臣や雄藩から選抜された藩士が参加しました。勝海舟・榎本武揚・五代友厚・佐野常民など、著名な人物が名を連ねています。
この海軍伝習は、海軍学校と工科大学を合わせたようなもので、航海術・砲術・測量・数学・造船・蒸気機関など、当時の先端知識を学ぶものでした。
これに強い関心を示した鍋島直正は、多数の佐賀藩士を送り込みます。
1期生では最大級の勢力を占め、受講生の4分の1前後が佐賀藩士だったと言いますから、この逸話にも佐賀藩の特異性が表れていると言えるでしょう。

佐賀藩は海軍伝習に積極参加しただけでなく、伝習が終わった後は「三重津海軍所」を開設して、海軍育成と蒸気船の研究を発展させていきます。
佐賀で鍛え上げられた理系人材は、幕末と明治期に多数の技術官僚を生むことになります。
倒幕運動で活躍した志士は少ないものの、佐賀藩が生んだ多数の技術官僚は、維新回天と富国強兵を支えた地盤の一つになりました。
佐賀藩は一人の英雄というより、近代国家を動かす人材群を輩出したのです。
肥前の妖怪
鍋島直正は時勢を読み誤ることなく、軽率に行動を起こすこともなく、慎重に勝ち組を見極めてから参戦し、いざ登場してからは大きく貢献しました。
表舞台に出るのが遅れたことは、佐賀藩が地味な存在になった一因でもありますが、雄藩をあずかる当主としては、理想的な判断だったのではないでしょうか。
有名な悲劇や事件がない佐賀藩は、犠牲対功績のパフォーマンスが、勝ち組の中では突出して高いからです。
明治期には、征韓論争や佐賀の乱で被害を受けましたが、維新までは見事な立ち回りだったと言えます。

直正は維新の3年後に、58歳で亡くなってしまいますが、もし彼が長生きしていたら、佐賀藩の存在感はより大きかったかもしれません。
雄藩を率いながら、激動する幕末の中央政界にあって、佐幕・尊王・公武合体のいずれにも深入りせず、「肥前の妖怪」という異名をとっています。
周囲の混乱をよそに、ひたすら技術革新に邁進して、機をうかがっていたのです。
また、それとも関係しますが、彼は西洋技術に傾倒したことから、「蘭癖大名」とも呼ばれました。
こうした二つ名からも、いかに特殊な存在だったかが推測されます。
最悪のスタート
佐賀藩を一躍、技術立国に押し上げた鍋島直正ですが、決して順風満帆だったわけではありません。
むしろ、最悪のスタートだったと言えます。
彼が藩主に就いた当時の佐賀藩は、先端技術の研究開発どころか、破綻が危ぶまれるほど深刻な財政難に陥っていました。
直正の挑戦は、大胆な財政改革から始まります。
父である鍋島斉直は浪費癖が酷く、10人以上の側室を抱えて、贅沢な暮らしをしていたと言います。

家臣たちも心が緩んでおり、贅沢に慣れ切っているばかりか、若年の直正が手がけようとした改革に抵抗します。
長崎の警備コストも、恒常的な支出として、佐賀藩の財政を重く圧迫していました。
このコストを渋って、幕府に無断で警備兵を減らし、屈辱のフェートン号事件に巻き込まれたのは前述の通りです。
10代半ばで就任した新米の若殿が、先の見えない財政難に加えて、浪費に無頓着なご隠居と重役を押し付けられたのですから、想像しただけで気が滅入ります。
直正は、まず自分たちの俸禄を減らした上、藩内に倹約令を発令しました。

運が悪いことに、佐賀城の二の丸が火災で炎上してしまいますが、逆にこの機会を利用して、倹約に反抗的だった上層部を刷新します。
浪費家である父斉直の反対も押し切って、改革を断行していきました。
大幅な人員整理を手がけて、約5分の1まで役人を減らしたと言いますから、藩内には激震が走ったことでしょう。
借入先と粘り強く交渉して、債権の一部放棄を承諾してもらい、残りは50年の分割払いにして、収支を改善する道筋を付けるなど、地道な努力を重ねました。
そろばん大名
緊縮財政だけでなく、同時に陶磁器・茶・石炭などの産業を振興して、収入を増やす努力もしました。
特に陶磁器は有名で、有田焼・伊万里焼・鍋島様式磁器などが大事な収入源になりました。
これらは後年、1867年のパリ万国博覧会にも出品されています。

また、フェートン号事件の苦い教訓から、軍事・工業を重視したことは前回に書きましたが、これらは同時に軍需産業になりました。
その技術や先端兵器は、佐賀藩の軍事力になっただけでなく、他藩に売却して収入を得ることもできました。
鍋島直正は、今で言えば「技術者気質の名経営者」です。
破綻寸前だった大組織を立て直した上、事業を軌道に乗せて収支を改善し、とりわけ柱となる軍事・工業では、頭ひとつ抜き出た存在にまで育てました。
直正は肥前の妖怪、蘭癖大名などと呼ばれましたが、もう一つ「そろばん大名」という異名も持っています。
その優れた財政手腕に、商人や歴史家が敬意を表して呼んだのでしょう。

先端技術にも明るい。会計も理解している。組織の経営もできる。その上、時勢まで読めるわけですから、まさしく賢侯の名に相応しいと言えます。
つづく。
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