南蛮
南蛮は元々、古代中国における漢人が、周囲の異民族を呼ぶ際に使用した、侮蔑的な名称の一つでした。
中心である自分たちから見て、東西南北にいた異民族を、それぞれ「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼びました。
読み方は「とうい・せいじゅう・なんばん・ほくてき」です。
方角の後に続く文字、つまり「夷・戎・蛮・狄」は、相手を野蛮人とみなす意味があります。
特に「蛮」は部首に虫を含み、「狄」は部首に犬を含みますから、漢人はそのような見方をしていたようです。
4つすべてを合わせて、「四夷/しい」と呼ぶこともあります。

中華思想
中国には「中華思想」というものがあります。これは現代まで影響を及ぼす、彼らの基本発想の一つです。
中華思想をひと言でいえば、世界の中心には文明国家である「華夏/かか」があり、その周囲には文明の程度が低い国々があるという世界観です。
「華」は美しい・文化が発達している、「夏」は礼儀正しい・文明的という意味があります。
つまり、「華夏」とは文明人を指しました。
逆に、文明的ではない者は「夷狄/いてき」と呼ばれました。
礼儀・文字・法律・祭祀などがある中央は華夏(文明的)であり、それらがない辺境は夷狄(非文明的)であると考えたのです。
彼らは民族というより、文明の程度を重んじたらしく、異民族であっても中国文化を受け入れれば華夏になり、漢人といえど礼を失すれば夷狄になると捉えました。
漢人とは、それほど文明的だったのかと思ってしまいますが、一方で「痴漢・悪漢・無頼漢」などの言葉もありますから、異民族から見たら十分野蛮だったようです。
倭
古代中国から見た場合、日本は東夷の一部でしたが、「倭/わ」という名称もありました。
倭には、小さい・従う・背が低いという意味があります。四夷と同じく、辺境として侮蔑的な含みがあったようです。
大和民族は倭という呼称を嫌い、自らは「日本(日の出るところ)」と名乗りました。また、「わ」に対しては「和」の字を当てました。
歴史の授業では、「倭寇/わこう」が登場します。
これは13~16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸を襲撃して、略奪や密貿易を行った武装集団、要するに海賊の総称です。
倭寇と言いながら、日本人だけでなく、中国人や朝鮮人などを含む多国籍集団でした。
なぜ「倭」を前面に出したかと言うと、当時の日本人は勇猛で強かったため、襲撃先を威嚇しやすかったからだと言われています。

南蛮貿易
日本には、「南蛮貿易」という言葉があります。
これは16~17世紀、ポルトガルやスペインと行った貿易を指しています。
当時の日本から見ると、ポルトガル人やスペイン人は、南の海から来る外国人でした。
したがって、漢語にならって彼らを南蛮人と呼びましたが、そこに侮蔑的な意味はなかったようです。
次のような理由から、侮蔑というより、敬意・好奇心・恐怖などが入り混じった呼称でした。
・先進的な武器や、珍しい技術を持っている。
・キリスト教を伝えた。
・遠い異国からやって来た。
ただし、キリスト教禁制や鎖国政策が進むと、否定的な文脈で使われることもありました。

南蛮料理
南蛮貿易と同じ流れで、ポルトガル人やスペイン人が持ち込んだ料理は、「南蛮料理」と呼ばれました。
カステラ・金平糖・有平糖・パン・天ぷら・ボーロなど、現代までつながるものが少なくありません。
南蛮漬けも同様です。南蛮漬けは、魚を揚げて、酢に漬けて、唐辛子を入れる料理ですが、これもポルトガル人やスペイン人が伝えた料理法でした。
破廉恥/ハレンチ
現在の破廉恥は、「淫ら・性的に不適切・恥知らず」という意味で使われますが、本来は性的な意味を含みませんでした。
最初は、人として最も大切な「廉(清廉)」と「恥(羞恥心)」を失うことを指していました。
古代中国において、廉は重要な徳目とされました。次のような意味があります。
・賄賂を受け取らない。
・欲に流されない。
・公私を区別して、正義を重んじる。
現在でも、清廉潔白という表現が残っています。
また、恥を知る心も同じように重視されました。
なぜなら、人間は悪いことをした時、それを恥ずかしいと思うからこそ、二度としないと心に決めます。
恥を知って初めて、人間は正しく生きることができると考えられたからです。
したがって、廉と恥を失う「破廉恥」は、単なる恥知らずというより、人格の基礎や道徳心を失ったという、重大な意味がある言葉でした。

日本に伝わった後も、最初は性的な含みはありませんでした。
たとえば、明治時代の新聞では、役人の汚職や詐欺師に対して、破廉恥という言葉がよく使われています。
性的な含みを持つようになったのは、戦後の週刊誌で「裸体・不倫・わいせつ」などの記事に、見出しとして破廉恥と書くことが増えたからです。
背水の陣
背水の陣は、失敗したら終わりという状況で、覚悟を決めて臨むことを意味します。
現在もよく使われるこの表現は、前漢の名将・韓信の故事に由来しています。
紀元前204年、韓信は趙との戦いに臨みました。趙軍20万人に対して、漢軍は約3万と圧倒的な不利でした。
ここで韓信は、あえて川を背にして、逃げられないように布陣します。負けそうだから逃げよう、と考える兵士の逃げ道を塞いだのです。
孫子の兵法における「死地に置けば生きる(死地則生)」を、韓信はここ一番で実践しました。
結果として、漢軍は絶望的な兵力差を覆して、勝利を収めました。

背水の陣は、確かに兵士に覚悟を決めさせましたが、漢軍はそれだけで勝ったのではありません。
韓信は、騎兵を別動隊として隠していました。
趙軍は、漢軍が逃げ場を失ったと見て、これを潰そうと全力で攻めて来ます。その間に、別動隊が趙軍の本陣へ突っ込んだのです。
別動隊は趙軍の旗を抜いて、漢軍の旗を立てました。
趙軍は自分たちの本陣に、敵の旗が立っているのを見て大混乱に陥り、総崩れになりました。
単なる「退路を断つ」という精神論ではなく、心理戦を駆使した巧みな戦術だったのです。
青天の霹靂
青天の霹靂(へきれき)は、突然起こった驚くべき出来事を意味します。
雲ひとつない青空(青天)に、突然激しく雷が落ちること(霹靂)は、まったく予想できません。
特に、霹靂は普通の雷ではなく、激しい雷鳴・落雷を指しています。
通常であれば、空模様があやしくなり、黒い雲が天を覆って、やがて雨や雷が発生します。
快晴の状態で、いきなり激しく雷鳴が轟くとは、普通は想像しません。

このことから、絶対にないと思われていたことが突然起きた場合に、青天の霹靂という表現が使われるようになりました。
良いことか、悪いことかという区別はありません。善悪というより、「予想外であること」が重視されます。
似たような言葉に「寝耳に水」がありますが、こちらは「あることを突然に知らされる」という意味です。
これに対して、青天の霹靂は、出来事そのものの衝撃を表しています。
南宋の詩人・陸游の詩に由来すると言われますが、当時から現代まで、800年近く経っても意味合いが変わっていません。
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