ネーミングが天才的な織田信長

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当時のキラキラネーム?

 織田信長と言えば、経済革命を起こした天才ですが、子供の名前の付け方も型破りでした。

 当時のキラキラネーム的な名前を連発しており、その独特すぎるネーミングセンスは注目に値します。

 長男・信忠の幼名「奇妙丸」は有名です。

 当時の「奇妙」には、珍しいとか、素晴らしいといった良い意味がありました。

 したがって、現代語の「変」とは少し異なりますが、それにしても語力が強い名前です。今で言えば、珍介(ちんすけ)みたいなイメージでしょうか。

 二男・信雄の幼名「茶筅丸」もしばしば登場するので、歴史好きの方はご存知かもしれません。

 髪型が茶筅(ちゃせん/茶を点てる道具)に似ていたから、その名を取ったと言われます。ヘタしたら茶碗だった可能性もあると思うとじわじわ来ます。

 2度あることは3度あると言いますが、信長の場合は11回ありました。

男子は全員おかしい

 こうして11人を見てみると、序盤の奇妙丸と茶筅丸は、実はかなりの愛情を注がれていたことが分かります。

 赤ん坊をその目で見た印象を、信長なりに表現しているからです。

 三男以降は、まともに見ているのか疑わしくなってきます。

 三男・信孝の幼名「三七」は、三男だからとか、3月7日生まれだとか言われますが、やや投げ槍になっているのが分かるでしょう。

 四男・秀勝の幼名「於次/おつぎ」は、単に次という意味です。「次の子」という感じでしょうか。

 五男・勝長の幼名「御坊/おぼう」は、坊ちゃんのような愛称ですから、その日は信長の機嫌がよかったのかもしれません。あるいは、信長が忙し過ぎたので、周囲の人が命名したのでしょうか。

 六男・信秀からは一転、ある意味で本領発揮となります。幼名「大洞/おおぼら」は今も昔も謎しかありませんが、しかしこの子には、大きな穴を連想させる何かがあったのでしょう。

 残念なのは七男・信高で、こちらは幼名「小洞/こぼら」です。大洞の次に、リズムで付けたとしか思えません。

 八男・信吉の幼名「酌」は、側室「鍋」の子なので、鍋に合わせて酌にしたのではないかと言われます。子の酌も強烈ですが、母の鍋もなかなかのものです。

 九男・信貞の幼名「人」は、ある意味で極みに達しました。何かを悟ったというか、天から降りて来たというか、常人の理解が及ぶところではありません。

 十男・信好の幼名「良好/よしよし」と、十一男・長次の幼名「縁」は、確かに珍しくはありますが、ポジティブな意味合いなので、名前らしさを取り戻しています。

 さすがに「人」の影響を気にしたのでしょうか。ややトーンダウンしました。

 他の大名家が縁起の良い字や、勇ましい動物などを好んだのに対して、信長は日用品や抽象語、一見すると名前らしくない言葉まで取り入れています。

なぜ奇抜な命名をしたのか

 なぜ、信長が奇抜な命名をしたのかについては、彼が常識に囚われない人物だったことに加えて、次のような理由があると言われています。

幼名は正式な名ではない

 当時の武士は、元服して正式な名前(諱/いみな)を得るため、幼名は一時的な呼び名でした。

 正式な名前ではなく、子供時代に限って、家庭内で呼ぶ愛称という性格が強かったため、多少ユーモラスでもよかったようです。

 実際、男子たちは皆、正式な名前としては、立派な諱を得ています。

悪霊除け

 中世の社会では、子供が幼いうちに亡くなることが多く、「あえて変な名前を付けて、悪霊の目をごまかす」という風習がありました。

 たとえば、捨松のような「捨」の字を使う名前は、江戸時代まで広く見られましたが、これは「この子は捨て子だから、大切な子じゃありません」という演出です。

 悪霊が喜ぶような子ではないから、「どうか狙われませんように」という意図が込められていました。実際はもちろん大切な子です。

 これは中世の日本だけでなく、アジア・ヨーロッパ・アフリカなど、世界各地で見られる現象です。

 乳幼児の死亡率が高い社会では、繰り返し登場する共通の発想だとされています。

 文化人類学では「悪霊欺瞞(ぎまん)型命名」と呼ばれます。悪霊が欲しがらない名前を、わざと付けるのです。

 中世は医学が発達しておらず、細菌やウィルスという概念がありません。病気は悪霊や魔物のしわざと考えられていました。

 なお、タイは現代でもこの風習が残っており、豚・ねずみ・蜂・太っちょなど、一見してよくない綽名(チューレン)を持つ人が少なくありません。

定番だった幼名は?

 戦国時代に好まれた幼名と比較すると、信長のネーミングがいかに面白いかが分かります。

 こうして見ると、当時は「〇丸・〇千代」が定番だったことが分かります。

 これは昭和世代でいうところの、男性の「〇郎・〇男」、女性の「〇子」のようなイメージでしょうか。

 千代には「千年生きますように」という、長寿の願いが込められています。

 やはりポジティブな意味合いを持つ、縁起を担ぐ名前が多かったようです。

 夜叉若(やしゃわか/加藤清正)のような一見恐ろしい名前、芳菊丸(ほうぎくまる/今川義元)のような優雅な名前も、親の価値観や願いが見えるようで興味深いところです。

 梵天丸(ぼんてんまる/伊達政宗)が異彩を放っているように見えるのは、きっと私だけではないでしょう。諱の政宗も、非常によい響きです。

 上杉謙信の幼名が「虎千代」なのは、結果的には皮肉でした。

 成人して「越後の龍」になった後、彼が戦った強敵は武田信玄、すなわち「甲斐の虎」だったからです。

姫の名が記録されている

 話を織田信長に戻しましょう。彼のネーミングは、姫に関しても珍しいものでした。これは「男子とは別の意味で」です。

 どういう意味かと言うと、織田家は戦国大名の中でも、姫の幼名・本名がよく伝わっている珍しい一族なのです。

 当時の女性は、公的な文書では個人名ではなく、「○○殿・○○院・〇〇の方」など、敬称で呼ばれることがほとんどでした。

 たとえば、上杉謙信の姉や、武田信玄の娘ということは分かっても、幼名・本名が分からないというケースが多くあります。

 これは女性を軽視したというより、当時の公文書の書き方の慣習によるものです。

 一方、信長の娘は、冬姫・永姫(ながひめ)・五徳・於次・振姫(ふりひめ)など、多くの名前が伝わっています。

女性は敬称が残りやすい

 戦国時代の女性は、本名が分からない人が大半という特徴があります。

 たとえば、武田信玄の正室「三条の方」は、三条家出身の姫に対する敬称であり、名前ではありません。側室「湖衣姫」は、後世の創作と言われています。

 徳川家康の正室「築山殿」や、豊臣秀吉の側室「淀殿」は敬称であり、上杉謙信の姉「仙洞院」や、今川義元の母「寿桂尼」は法号です。いずれも名前ではありません。

 織田信長の正室「濃姫(または帰蝶)」すら、婚姻前の名前ははっきりしないと言われます。

 かなり有力な大名家でも、女性は敬称で記録されており、幼名・本名がよく分かりません。

 確認できる名前は、お市の方の「市」や、浅井三姉妹の幼名「茶々・初・江」などであり、意外なほどに少ないのです。

系図にも載りにくい

 現代の感覚だと驚きますが、系図には「女・女子・息女」などと記載されるのが一般的でした。

 なぜなら、系図の目的は、家督相続を示すことだったからです。家督を継がない女子は、名前が明記されませんでした。

 一方、「女子 〇〇氏室」など、婚姻先を明記することはありました。どの家に嫁いだかは、重要な情報だったのでしょう。

 名前はもちろんあるのですが、公文書だと敬称が使われたり、系図だと省略されたりして、当時の慣習では、女子の名前が残りにくかったようです。

なぜ名前が残ったのか

 なぜ信長の娘たちは、幼名・本名がよく伝わったのでしょうか?

 それは織田家の一族が、戦国時代の中心になったため、当時及び後世の関心が高かったからです。

 また、娘たちは有力な大名家や公家に嫁ぎましたので、それぞれの家に系図や婚姻記録、公家の日記などが残りました。

 当時は政略結婚が普通にあったので、その担い手になる姫は大事な存在でした。

 さらに、安土・桃山時代から江戸時代にかけて、織田家に関わる系図・伝記などが、比較的多く編纂されたことも影響しています。

 つまり、織田家が特別に姫の名を記録したというより、信長の娘についてはとりわけ、後世まで記録が伝わる条件が揃っていたというわけです。

 同じことは、その後に天下人になった豊臣秀吉・徳川家康にも言えます。

 三英傑の娘(養女を含む)は、他の著名な戦国大名に比べると、しっかりした記録が残っています。

本領はブランディング

 信長のネーミング、特に幼名の付け方は奇抜でしたが、ブランディングの方は彼の本領だったと言えます。

天下布武

 その最たるものは、誰もが知る「天下布武」です。

 最近は、畿内の安定を目指した「天下静謐/せいひつ」だったと主張する人もいますが、やはり天下布武であって欲しいというのが、私たち歴史ファンの本音でしょう。

 尾張・美濃の二カ国を領有した時点で天下布武を掲げ、これを家臣と他家に示したのです。

 そして実際、京都に上洛して織田政権を確立し、本能寺の変が起きるまでに20~22カ国を領有するに至りました。これほど鮮烈な有言実行はありません。

 普及し過ぎて、今や当たり前の単語になっていますが、これこそ信長の真骨頂でしょう。

 たった四文字が「政治理念・軍事方針・野心」を見事に表現しています。戦国屈指のコピーライティングでした。

 信長は方針を明確に示して、周囲を納得させる人間でした。だからこそ、比叡山を焼き討ちする時でさえ、家臣団は乱れなかったのです。

岐阜

 美濃の稲葉山城を落とした後、城下町の井ノ口を「岐阜」と改名したことも、今では常識になった彼のブランディングです。

 僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)が幾つか候補を挙げて、その中から信長が選んだとされます。

 「岐」は、中国の岐山にちなみます。岐山は、周王朝の始祖・文王が勢力を伸ばした地であり、天下統一の基盤になりました。

 「阜」は、孔子の故郷である曲阜(きょくふ)から取っています。

 この文武を組み合わせた言葉は、当時としても知的・斬新だったでしょうが、現代でも非常によい響きに感じます。

 なお、たくあん漬けで有名な沢庵和尚は、沢彦宗恩とは別人です。私はたくあんを食べながら二人で決めたのかと、勘違いしていました。

安土

 そして、居城とした安土(あづち)城の「安土」を挙げないわけにはいきません。

 安土という地名は既に存在しましたが、これをブランディングしたのは信長です。これは「安土・桃山時代」という時代名に残るほどの威力でした。

 岐阜が「天下布武の出発点」を示すブランドだったとすれば、安土は「新しい天下の中心」を演出するブランドでした。

 現代で言えば、会社の実績と状況に応じて、本社移転や商標マークの変更を、適時適切にやってのけたイメージです。

 「安」は平和や安定を、「土」は大地や国土を連想させます。

 安土城を新たな本拠として、織田政権がより盤石となり、それによって天下が安らかになるという印象を、世に与えようとしたのかもしれません。

 岐阜にしろ安土にしろ、信長は既存の名称に政治的な意味を付与して、強力にブランディングする術に長けていました。

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