武田信玄は本当は弱かった?

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え、武田信玄が弱い…?

 そんな「実はですね」的な話で、久し振りに驚いたことがあります。あの加来耕三先生が、なんと「武田信玄は本当は弱かった」というのです。

 武田信玄と言えば、信長すら畏怖した「甲斐の虎」。そして、武田の赤備えと言えば、「最強」の代名詞。

 最初はにわかには信じ難かったのですが、そこはさすがに加来先生。イメージを破る視点を与えてくださいました。

 武田信玄は、父である信虎を追放したことで有名ですが、これは信玄が主導したものではない、というのです。

 戦上手である信虎は、優れたリーダーである一方、それに従う国人らは負担が重くて疲弊していました。

 当時は下克上の世の中です。厳しい軍役や、信虎の横暴に耐えかねた家臣たちは、団結して信虎を追放しました。

 その時に軽い神輿(みこし)として担いだのが、「無能」とみなされていた信玄だったそうです。

 若い頃の信玄(当時は晴信ですが、信玄の記載で統一します)は文弱の徒であり、武将としての将来を危ぶまれていました。

 弟の信繁の方が軍事的才能に秀でており、父の信虎も武田の家臣団も、信玄ではなく信繁に期待を寄せていました。

 平たく言えば、信玄は嫡男でありながら、ナメられていたのです。

神輿(みこし)は軽い方がいい

 その点を取り繕うエピソードとして、海ノ口城の逸話があります。

 1536年末、父の信虎が約8,000の軍勢を率いて、信濃国佐久郡の海ノ口城に侵攻しました。これは当時16歳だった信玄の初陣とされます。

 信虎は36日間、海ノ口城を攻囲しましたが、これを陥とせずに撤退。その時に、信玄が殿軍(しんがり)を志願しました。

 約300の手勢をあずかって撤退戦を指揮した上、逆に海ノ口城に奇襲をかけて、なんと1日で陥としてしまったのです。

 このような大金星をあげながら、父の面目を潰したためか、その聡明さを疎まれてか、初陣後は不遇をかこっていたとされます。

 優秀な信玄が不当に抑え込まれていた、という「設定」です。

 しかし、この逸話は「甲陽軍鑑」にしか描かれておらず、これ以外のより信頼性の高い史料、たとえば高白斎記や妙法寺記などには登場しません。

 甲陽軍鑑は、高坂昌信による口述を元にしていますが、高坂昌信は「武田四名臣」に名を連ねる大幹部。

 しかも、信玄とは衆道(同性の恋人)の関係にあったと言われますから、二人は強固な絆で結ばれていました。

 極めて近しい間柄だったことを考慮すると、信玄びいきの創作が多少あったとしても、なんら不思議はありません。

 歴戦の信虎が攻めあぐねた敵を、わずか300の手勢で、たった1日で攻略したというのも、確かに出来過ぎと言えるでしょう。

 こうした点から海ノ口城の逸話は、信玄を持ち上げるための作り話ではないかと指摘されています。

 実際の信玄は初陣も遅く、大した武功もなくて、少なくとも信虎追放の段階では、軽い神輿(みこし)として家臣に侮られていたようです。

 時に若干21歳ですから、さもありなんでしょう。

 信虎が信玄を疎んだのは、一般に言われているように、聡明に過ぎたからではありません。

 よりシンプルに、文弱の徒であり、武に劣っていたからです。

武田信玄
武田信玄

俺は16歳で初陣した時、父上が落とせなかった城を、一日で落としたんだよね~(ウソだけど)。

泣けてくるほどの苦労人

 家督を継いだ後の信玄は、しばらくの間は、重臣たちが決めたことに判子を押すだけの存在でした。

 現代の会社で言えば、専務や常務にいいようにあしらわれる二代目の若社長です。

 「あたしらに任しといてくださいね、坊っちゃん(あんたはどうせ分かんないでしょ)」という感じです。歴戦の「部下」たちは、若社長にはやり辛くて仕方ありません。

 しかし、信玄公がすごいのはここから。

 加来先生によれば、信玄は戦国大名を代表する「努力の人」であり、いわく「泣けてくる」ほどの苦労を重ねて、武田家当主としての地位を確立していったと言います。

 彼は領民が喜ぶこと、国人が喜ぶことを地道に行い、その支持を集めることで、徐々に発言権を増していきます。

 特筆すべきはやはり、富士川水系の暴れ川として知られた、釜無川(かまなしがわ)を治水した「信玄堤(しんげんづつみ)」でしょう。

 この堤防は、今でも現地に暮らす人々の生活を守っており、現代河川工学のルーツの一つとも言われます。

 治水が安定したことで、甲斐国(現山梨県)では特に貴重だった田畑が保護されたばかりか、新田開発が可能になり、それによって次男三男らの食い扶持ができました。

 かつて凶作の時期には間引かれていた命です。信玄は文字どおり、多くの命を救ったのです。

 そして、そうした次男三男らの中から、屈強な男子が軍役に就き、強兵として近隣に名を轟かせていくことになります。

武田信玄
武田信玄

治水は俺の戦(いくさ)、甲斐の戦だ!

赤備えというイメージ戦略

 武田の兵は単なる強兵ではなく、ここでもまた信玄は重要な工夫を施しています。

 それは「赤備え」というブランディングです。

 信玄は、具足を赤に統一した上、退却しない、前進しかしないという異常な軍を作りました。

 この時点でも圧倒されますが、信玄が真に狙ったのはその先です。

 この「退却しない精鋭集団」という評判を、積極的に情報工作して、周囲に恐怖を刷り込んだのです。そして、その象徴としての赤一色。

 やがて敵方は、武田の赤備えを見ただけで恐れおののき、逃げ出すようになります。

 実際に強かったことに加えて、「あんな異常な連中に勝てるわけがない」と思わせておく不断の工作活動が、見事に奏功したのでした。

 加来先生はこれを、信玄の「イメージ戦略」と評しています。

 後年、信玄の没後に織田・徳川連合軍が、長篠・設楽原(したらがはら)の戦いで武田軍を破ることになります。

 この時、赤備えの総帥だった山県政景を討ち取りましたが、織田・徳川方の記録によれば、意外にも彼は「貧相で小柄な男」だったと言います。

 身長130~140cmだったそうですから、当時としても小男です。

 軍事的才能はもちろんですが、その覚悟とブランディングが、彼を武田の鬼たらしめていたようです。

武田信玄
武田信玄

武田の赤備えって、すげえ怖いらしいよ…!

不安定だった当主の座

 信玄の前半の宿敵だった村上義清は、信玄をして「後途の勝の武将」と評しました。

 つまり、戦はそれほど強くないけれど、戦場以外の場所で策をこらして勝利につなげる将、という意味です。

 これは合戦では勝利しながら、真田幸隆の謀略によって居城を追われたことに対する、村上義清の恨み節とも言えますが、一方で信玄の巧みな情報戦スキルを適切に表しています。

 内政であれ軍事であれ、信玄というのは実に地道に、繊細に、粘り強く尽力した人だったようです。

 そうせざるを得なかったのは、彼が置かれた微妙なポジションが関係しています。

 生き馬の目を抜く戦国の世において、若年の頃の信玄は守護大名のボンボンであり、言わば血統だけの飾りでした。

 主人と家来というイメージには程遠く、それほど権力を持たない連邦の盟主のようなもの。

 その苦悩は1547年、信玄が27歳の時に発布した分国法「甲州法度之次第」にも表われています。

 甲州法度の最後に、「この法は私にも適用される」という一文がありますが、これは他家の分国法ではあり得ないことです。

 もし法を犯せば、当主である自分すらも罰せられると、わざわざ宣言しているのです。

 信玄は、家臣に上下関係を押し付けるのではなく、自らその中に入る形で支持を得ようと努めました。

 その発想は「武田二十四将図」の絵画にも表れています。

 この図は将の配置がユニークで、信玄は当主でありながら頂点にいません。他の将に囲まれる形で鎮座しています。

 これは信玄の人間性や、家臣団の連帯を表すと同時に、彼が置かれた微妙な状況を示唆しています。

 良く言えば、君臣が団結していたのですが、悪く言えば、中央集権化に失敗したわけで、この宿痾ともいうべき不安定さが、後継の勝頼を苦しめるとともに、武田家滅亡の要因になっていきます。

山岳地帯はそもそも不利

 「信長の野望」をプレイしていると感じますが、山岳地帯の大名家は、平地の大名家に比べて冷遇されています。

 攻めにくい「山城」という点ではよいのかもしれませんが、人口や産業という点では明確に不利であり、どうしても国力が劣ってしまいます。

 そのため、いかにして平地に出て、肥沃な土地を取ろうかと考えざるを得ません。

 不思議なことに、武田家以外でプレイしていると、武田家は猛烈な脅威に映りますが、しかし自分が武田家でプレイすると、思う以上にやり辛く感じます。

 開発区画が少なくて農業・商業が伸びなかったり、人口が少なくて兵数が増えなかったり。

 もちろん家臣団は優秀なのですが、イメージほどは強くないと感じてしまいます。織田家の方がよほど、癖がなくてプレイしやすかったりします。

ブドウは貧者の食物

 山梨と言えばブドウですが、これもまた甲斐国の悲哀を示唆しています。

 現代のブドウは瑞々しくて甘いので、およそ想像しにくいですが、ブドウは元来、痩せた土地で生産する貧者の食物でした。

 その根が地中深く、場合によっては数メートルまで伸びるため、表土の条件が悪くても実るのです。

 米を生産できない痩せた土地では、蕎麦(そば)の実やイモ類などを生産しますが、それと似たような扱いだったのでしょう。

 山岳地帯である甲斐国は、釜無川がよく氾濫したことに加えて、元々が米の生産に向かない土地でした。

 それゆえに、父の信虎は食糧を求めて、農閑期にたびたび外征せざるを得ませんでした。

 また、甲斐国は内陸であるため、海に面していません。海がないということは、人間の生理活動に欠かせない塩を生産できません。

 塩がなければ、領民が体調不良になりやすいばかりか、食糧の保存性が落ちて、ますます飢えやすくなります。

 絶対に必要な資源なので、外から買う場合は足元を見られて、高値を吹っかけられたりします。

武田信玄
武田信玄

上杉が塩をタダでくれたって…? そんなワケあるかッ!

上り坂すら苦労ばかり

 こうした状況の中、飾りの当主に過ぎなかった信玄が、苦労しながら徐々に発言権を得て、積年の難題を一つひとつ解決していきました。

 信玄堤で治水を成功させ、それによって新田開発を推進し、国内の食糧問題を大きく改善しました。

 精強な赤備えを作り上げると同時に、情報工作を駆使して味方の損害を抑え、遂には隣国の信濃国(現長野県)を制圧しました。

 信濃はその地形特性から、豪族が分立していたとは言え、これは当時のジャイアントキリングです。

 さらに、金山を開発して領国経済を活性化し、駿河国(現静岡県)を攻略して塩と海産物を獲得しました。

 武田家は、戦国の世を代表する一大強国というイメージが強く、「本当は弱かった」と言われると意外に感じますが、改めて考えると確かに悪条件だらけです。

 山岳地帯に強国を築いた信玄公が、いかに偉大だったかということでしょう。

 しかし、そんな武田家も、第4次川中島の合戦において、表に裏に大活躍して家中を調整していたナンバー2、弟の信繁を失ったことで、運命が徐々に暗転していきます。

 上り坂は苦労なくして語れず、下り坂は涙なくして語れないのですが、だからこそ人々を強く惹き付けるのかもしれません。

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