筒井順慶という坊主スター 日和見 元の木阿弥 松永久秀

筒井順慶 ブログ

 筒井家と言えば「島左近」。過去の私はそうでした。筒井というより、島左近がいる家だったのです。

 島左近に食われがちな筒井家ですが、当主である順慶は、実はかなりユニークです。

 超が付くほど有名な格言を二つも残している上、RPGの元ネタになりそうなくらい、上質なサクセスストーリーを持つ勝者でした。

 今回は大和国(現奈良県)が誇る坊主スター、筒井順慶について見ていきましょう。

日和見

 まず、何と言っても「日和見(ひよりみ)」です。

 これは状況の有利不利をうかがって、どちら側に付くべきか、様子を見ることを意味します。

 この言葉は筒井順慶が、本能寺の変後の山崎の戦いにおいて、明智光秀と羽柴秀吉のどちらに付くかを判断するため、洞ヶ峠(ほらがとうげ)で戦況を見ていたという故事に由来します。

 当初は「洞ヶ峠を決め込む」という言い回しで、傍観して様子見することを指しました。

 日和見は本来、「天気(日和)を見る」ことを意味しますが、上記の順慶の態度が「日和見的」だとして、徐々に「日和見」という言い回しになったようです。

 なお、順慶が洞ヶ峠に布陣したことを示す有力な史料はなく、実際は居城にいたのではないかと今は言われています。

 日和見は、腸内細菌の「善玉菌・悪玉菌・日和見菌」でも有名です。

 自分の腸内に筒井家がいると思うと、なんとなく親しみを感じませんか。

 医療の世界では、「日和見感染」という用語があります。

 健康な状態であれば、問題なく抑え込める弱い病原菌が、病気や加齢によって免疫力が低下した時に、感染症を起こすことを指しています。

 優柔不断な態度を非難する時に、「日和る(ひよる)」とネガティブな意味合いで使われることもあります。

 本来は、状況を見極めようとする態度のはずですが、日和るという言葉には「怖気づく、ビビる」など、マイナスの含みがあります。

 順慶は、辞世の句として次のように詠みました。

 「根は枯れじ、筒井の水の清ければ、心の杉の葉は浮かぶとも」

 これは「たとえ世間に浮き葉のような噂が流れても、根本が清らかならば本質は失われない」という意味合いです。

 順慶は優柔不断というキャラ設定を、死ぬ間際まで気にしていたのかもしれません。

元の木阿弥

 もう一つ、メジャー級の格言として「元の木阿弥(もくあみ)」があります。

 これは一度よくなったものが、再び以前の状態に戻ってしまうことを意味する言葉です。

 せっかくの努力や苦労が水の泡になり、振り出しに戻ったという時に使われます。

 筒井家は、元々は大和国の一大勢力だった興福寺の衆徒(僧兵)でした。

 これが順慶の父である順昭の代に、大和国最大の武装集団になり、筒井城を拠点に多数の豪族を従えて戦国大名化します。

 しかし、天文19年(1550年)、順昭が28歳の若さで病死したので、当時2歳だった順慶が家督を継ぐことになりました。

 順昭の死を隠すため、その影武者として手配されたのが、声が似ている「木阿弥」という盲目の僧でした。

 木阿弥はしばらくの間、影武者として殿様生活を送りますが、順慶の成人に伴ってお役目を終え、元の単なる僧侶に戻ります。

 そこらへんの僧侶が、一時は大名のような立場になり、またそこらへんの僧侶に戻ったという経緯が、「元の木阿弥」という言葉の由来です。

 後世の創作とも言われますが、個人的にはかなり好きな逸話の一つです。

 順慶が立派になった時、「木阿弥さん、お疲れ様でーす」という感じで卒業する(させられる)木阿弥の心境を想像すると、じわじわ笑えてきます。

 ある時を境に、殿様が次の日は木魚を叩いてるという姿がシュールです。

 周りの都合で振り回された人生ですが、たとえ一時の夢でも、彼はきっと幸せだったことでしょう。

ラスボスは松永久秀

 筒井順慶は、格言だけのイロモノ武将ではなく、逆境を跳ね返して劇的な勝利を収めた、戦国の勝者でもありました。

 全国規模で考えると地味ですが、大和一国では見事な勝利です。

 ラスボスは「戦国の梟雄」として知られる怪人物、あの松永久秀です。

 日本の副王と言われた三好長慶の右腕で、織田信長すら一目置いた畿内の実力者でした。

 智謀に優れる武将であり、火力が強いというより、デバフが強いという嫌なタイプのボスです。

 順慶は、幼少期から宿敵が松永久秀という、胃痛が約束された人生でした。

 父順昭の病死により、順慶はわずか2歳で家督を継ぎましたが、その後しばらくてして、永禄2年(1559年)に松永久秀が大和国へ侵攻します。

 後見人である叔父、順政が出陣しましたが久秀に敗れ、その後に堺で病死してしまいます。

 永禄4年(1561年)には、筒井家と協力関係にあった十市家が降伏して、順慶は追い込まれていきました。

 永禄8年(1565年)には、松永久秀の奇襲を受けて、本拠の筒井城を追われてしまいます。

 このあたり、順慶はまだ多感な10代ですから、大変な脅威に映ったことでしょう。

 しかし、永禄9年(1566年)、順慶は松永久秀と対立する三好三人衆らと結託して反撃に転じ、なんとか筒井城を奪還します。

 どろどろの抗争は続き、永禄10年(1567年)には、東大寺大仏殿を要塞化して久秀軍と戦いますが、これに敗れて、大仏殿が焼け落ちる中を敗走しています。

 運命に翻弄される若武者、焼け落ちる大仏殿など、歴史ドラマとしても十分成立しそうです。

 その後も、本拠の筒井城を再び奪われたり、奪い返したりと、血みどろの戦いを続けました。

しぶとい宿敵

 織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内に台頭したことで、この状況に変化が生じます。

 松永久秀、筒井順慶とも織田家に臣従し、明智光秀の仲介によって、元亀2年(1571年)に二人は和睦することになりました。

 表面上とは言え、幼少期から20代前半まで、自分を苦しめ続けた宿敵と相対して和睦した時、順慶はどのような心境だったでしょうか。

 順慶はその後、久秀の父子を城に招待して、猿楽を催したと言いますが、この時の不穏な空気を想像するとドキドキします。

 「ようこそお越しくださいました」からして、殺意がありそうです。

 しかし、この和睦は翌元亀3年(1572年)、織田信長と足利義昭が不和になったことで、あっさりと崩壊します。

 足利方に付いて反旗を翻した久秀と、織田方として残った順慶は、再び衝突を繰り返すことになりました。

 順慶を含む織田方は、一時は劣勢に置かれますが、武田信玄が病死して信長包囲網が弱まったこともあり、結局は織田方が勝利しました。

 この流れで、松永久秀は再び信長に降伏します。

 ここが宿敵の最期かと思いきや、なんと信長は久秀を許しました。

 それだけ畿内における利用価値があったのでしょうが、順慶としては「何回やらせる気だよ」と思ったことでしょう。

 時に順慶は26歳。彼の人生は「久秀」と言っても過言ではありません。

 「信長の野望」における久秀の顔を想像すると、じわじわ笑えるのは私だけではないと思います。

松永久秀
松永久秀

順慶ェ、もっと遊ぼうぜ~

筒井順慶
筒井順慶

帰ってくれッ!

大和国主になる

 天正4年(1576年)、順慶は織田信長から大和の国主に任じられます。

 幼少期にばたばたと一族が倒れ、居城を追われて辛酸を舐めた順慶が、晴れて国主になったのですから、見事なサクセスストーリーです。

 これは順慶の功績や、彼が有能であることもありますが、大和という国の特殊事情も影響しました。

 大和は伝統的に寺社勢力が強く、「統治しにくい国」と認識されていました。

 戦国時代の支配は二重構造であり、大名と寺社勢力がそれぞれに武装して、権力を振るっています。

 私たちが想像する現代の寺とは程遠く、僧兵という戦闘要員を多数抱えて、民衆から税を徴収するような、大名すら無視できない武装集団でした。

 多くの国は守護と寺社の二重支配である一方、大和国はとりわけ仏教勢力が強く、守護が存在しないという特殊な地でした。

 織田信長は、忍者だらけの伊賀国を嫌いましたが、バトル坊主だらけの大和国にも、苦手意識があったのかもしれません。

 そこで大和国に生まれ育ち、かつ調整能力に長けた将である順慶を起用したのです。

日本初の爆死

 信長に従った順慶が陽の目を見たのに対して、信長に反旗を翻した松永久秀は、許されて帰順したとは言え、先々が知れていると思ったのでしょう。

 彼は再び謀反を起こして、信貴山城に立て籠もります。

 この時、順慶は信貴山城攻めの先鋒を務めました。

 久秀は一代の傑物とは言え、織田方の大軍に囲まれては敵わず、あえなく敗北して自害します。

 愛蔵の名茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」と一緒に、日本初の爆死を遂げました。

 時に順慶は29歳。10代から人生を賭けて戦い続けた宿敵を、遂に倒したのです。天正5年(1577年)のことでした。

 翌天正6年(1578年)には、大和国の平定を完了しています。

 天正10年(1582年)、本能寺の変という大事件が起きますが、順慶はここでも的確に動いて、しっかり勝ち組に付いています。

 順慶にとって明智光秀は、松永久秀との和睦を仲介したり、織田方とつないでくれた恩人であり、その後も与力として上司・部下の関係にありました。

 しかし、順慶は感情に流されることなく、冷静に状況分析して、合理的な判断を下しました。

 結果論ではありますが、順慶は常に時勢の読みを外さなかった上、大和国の内政手腕にも長けていたのですから、地味な印象がありますが、非常に優れた将だったようです。

 茶湯・謡曲・歌道など、文化面に秀でた教養人でもあったと言われます。このあたり、上司だった明智光秀とは馬が合ったかもしれません。

 しかし、そんな順慶も36歳の若さで病死します。晩年は胃痛を訴えており、死因は胃病ではないかと言われます。

 彼の劇的な人生は、多大なストレスを与えていたようです。

 大和国という危険地帯において、高い生存能力を見せた順慶ですが、生命力はそこまで強くなかったのでしょうか。

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