司馬史観
日露戦争を描いた「坂の上の雲(司馬遼太郎著)」を読んで、心を震わせた日本人は多いでしょう。
私も20代の頃にこの作品を知って感激し、「司馬史観」なるものを疑いもせず信じていました。
よく史料を引用する一方、しれっと創作を混ぜたりするので、大半の読者には真偽があやふやになってしまいます。
その司馬史観によって、最も過大評価されたのが坂本龍馬なら、最も過小評価されたのは乃木希典かもしれません。

「坂の上の雲」には、乃木希典と彼が率いる第三軍が、いかに無能かという記述が繰り返し登場します。
他の将軍・将校は忘れても、乃木大将と伊地知参謀長は覚えている、という方は少なくないのではないでしょうか。
現在は、司馬氏の見解に対する反論もされており、評価はおおむね次の通り落ち着いているようです。
・最高の名将ではないが、愚将でもない。
・高潔な人間性は強く尊敬された。
・近代要塞の完成型に初めて相対し、損害は大きかったが勝利した。
本当に弱いのか…?
私は「坂の上の雲」を読みながら、あまりの被害の描写に気が滅入りながらも、次の点を疑問に感じていたのを覚えています。
・第三軍の士気が落ちないこと。
・ロシア軍のクロパトキン大将が、第三軍を警戒して不可解な撤退をすること。
・戦争の終結後も、乃木希典を尊敬する人が多かったこと。
本当に乃木希典が無能で、無駄〇にを強要されたのなら、そして本当に第三軍が弱かったのなら、この流れはおかしいのではないかと、今ひとつ納得できませんでした。
また、結果としての死傷者数を比べると、次の通りそこまでの大差がありません。
日本軍 戦死約15,400 戦傷約44,000
ロシア軍 戦死約16,000 戦傷約30,000
小説では、あたかも「次々とやられる一方」という描写でしたが、それが事実だとしたら、この数字にはピンときません。
近代要塞の攻囲戦であることを考えれば、攻め手としてはむしろ大健闘に見えます。
犠牲者の数は、確かに両軍とも甚大です。旅順攻囲は、近代要塞戦の恐ろしさを世界に知らしめました。
各国の観戦武官にも、強い衝撃を与えたと言われます。
しかし、犠牲者の絶対数は、司令官の有能・無能とは必ずしも紐づきません。
近代要塞戦はそれまでの戦いに比べて、遥かに犠牲者が増えてしまうものだったからです。
恐るべき現実に適応して、重点目標を203高地に変更し、重砲(28サンチ砲)を投入して勝利を収めたのですから、この点だけでも無能扱いは酷いのではないでしょうか。

それに、要塞に歩兵突撃を挑むことは、開戦段階ではまだセオリーでした。
攻城戦は火力で支援しながら、歩兵突撃で決するというのが、それまでの戦い方だったからです。
近代要塞というものがいかに悪魔的か、つまり近代要塞の前に歩兵は無力であり、突撃を挑むのは自〇行為だと世界が明確に知るのは、旅順攻囲戦によってです。
おまけに、バルチック艦隊が到着する前に、陥落させなければならないという時間制約もあったのですから、条件は非常に悪かったと言えるでしょう。
セヴァストポリ要塞との比較
犠牲者の絶対数に惑わされるなら、比較して相対化するしかありません。
しかし、旅順攻囲の直前には類例がなく、貴重な比較対象であるセヴァストポリ要塞戦(1854~1855年)は、半世紀ほど遡る必要があります。

その中間には普仏戦争における、要塞化されたパリの攻囲(1870〜1871年)がありますが、これは首都封鎖で勝負が決していますから、旅順の参考にはなりにくいです。
このあたりが、日本と第三軍の不運だったかもしれません。
もし直前に類似の要塞戦があれば、歩兵突撃を挑むことの恐怖と、近代要塞の強襲方法は、その時点で知れていたはずなのですから。
さて、セヴァストポリは、クリミア戦争において、英仏連合軍とロシア軍が戦った要塞戦です。
旅順とセヴァストポリを比較してみましょう。

損害が異常に大きい
まず目を引くのは、その損害の大きさです。
セヴァストポリの犠牲者は、旅順の2倍以上であり、両軍あわせて約23万人もの被害が生じています。
ただし、これは疫病の影響が大きいので、単純な比較はできません。
この頃は衛生状態が劣悪であり、コレラ・チフス・赤痢・壊血病などが、英仏の軍営では多発していました。
敵弾に当たって〇ぬより、病気で〇ぬ兵士の方が多く、「敵より病気が恐ろしい」という環境でした。
病院は換気が悪い上に、下水設備が貧弱で汚水が流れており、鼠が走り回っていたと言います。

ここで活躍したのが、スクタリ陸軍病院に派遣されたフローレンス・ナイチンゲールで、彼女は看護団を率いて、病院の清掃・換気・洗濯・食事改善などを主導しました。
看護婦として有名ですが、意外なことに統計学者であり、病死者数・戦死者数・感染症の発生率などを詳細に記録して、「兵士は敵に〇されるより、病院で〇んでいる」という事実を数字で証明します。
これによって、イギリス政府は衛生改革の必要性を理解し、それを実行して病〇を減らしたのですから、将軍級の功績だったと言えるでしょう。
少し話が逸れましたが、要塞戦は「司令官が誰かに関わらず、被害が甚大である」という点を、まずは知らなければなりません。
攻撃・防御の性能が段違い
そして、約50年の開きがありますので、その間の技術進歩によって、攻撃性能・防御性能ともに段違いになっています。
セヴァストポリには、伝統的な攻城戦の要素が多く残っており、砲撃の合間を縫って行う歩兵突撃が、まだそれなりに有効でした。
主力火器が前装(先端から火薬を詰める)なので、連射速度は遅くなります。
また、滑腔(ライフリングの溝がない)なので、飛距離や命中精度という点でも劣ります。

一方、旅順においては、恐るべき機関銃が登場しています。
これは1分間で数百発を連射できる、当時の先端技術でした。
こんな銃器を本格運用して、多方向から連射されたら、歩兵は突撃してもなぎ倒されるだけです。
ただ、機関銃といえど無限の連射はできず、弾丸を補充したり、過熱した砲身を冷ます必要があります。
その間隙は、歩兵突撃のチャンスとも言えますが、ここで厄介なのが、塹壕・鉄条網・有刺鉄線の防御セットです。
せっかくの短い攻撃チャンスが、いちいち鉄条網を工具で切断しなければならず、ろくに前進することができません。
しかも、切断作業をしている間も、塹壕に隠れた敵兵は攻撃してくるし、機関銃もいつ連射を再開するか分かりません。
こんな死がすぐ隣にある環境で、冷静に工具を使って、効率的に鉄条網を切断するなど、普通の人間にはまず不可能です。
焦って手元がガタガタ震えるでしょう。

一方、無理に乗り越えようとすれば、有刺鉄線がすぐ絡まります。
軍服に刺されば身動きが取れませんし、肌に触れれば簡単に裂けて流血します。
非常に厄介なのですが、素材は単なる針金ですから、砲撃で吹き飛ばすこともできません。
針金を固定している杭は倒せるかもしれませんが、針金自体は大した影響を受けないのです。
こういう設備が、塹壕と一緒に至るところに、大量に張り巡らされています。
現代ですら、状況次第では有効な設備ですから、当時としては恐るべき防御網だったことでしょう。
こんな近代設備でガチガチに固めた旅順要塞を、第三軍はよくぞ(機械化戦力の登場前に)陥落させたものだと、身震いしてしまいます。

旅順は不落要塞だった
この二つの要塞戦は、ともにロシアが防御側だった点も重要です。
ロシアは、セヴァストポリにおける貴重な経験値を、存分に旅順で生かすことができたからです。
セヴァストポリ要塞は、英仏連合軍の大軍を、約11カ月にわたり防ぎ続けました。
それを数倍に強化した旅順要塞は、当時における最先端であり、そうそう陥落しない「不落要塞」だと、ロシアの軍首脳部は考えていたようです。
それだけに、セヴァストポリより格段に強いはずの旅順が、その半分ほどの期間で落ちてしまったことに、ロシア軍は衝撃を受けました。
その後、アレクセイ・クロパトキン大将は、乃木希典を「神か悪魔か」と恐れて、第三軍を異常に警戒するようになります。

決め手となったのは、有名な「二十八糎榴弾砲(28サンチ砲)」です。
本来は沿岸防御用の固定式巨砲でしたが、これを分解して旅順に運び、組み直して設置しました。
こう書くと簡単に思えますが、重量は砲身だけで約10.7トン。
その設置は戦地にビルを建築するようなものです。工兵の努力は凄まじいものだったでしょう。
203高地をなんとか奪取し、28サンチ砲で砲撃したことで、ようやく主要堡塁の陥落、旅順艦隊の壊滅、守備兵の損耗などが実現しました。
当時は、今と違って上空地図やレーダーなどがないため、攻め手からは正確な場所が分かりません。
第三軍は目の前の堡塁と、その後ろにある「見えない敵」に対峙していたわけですが、203高地を奪ったことで多くの標的を視認できました。
標的が見えれば、座標が分かります。座標が分かれば、砲弾の軌道を計算できます。
203高地は、要所と高度はもちろんですが、視界が重要だったのです。
つづく。
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